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タツノコプロ創始者の実兄 吉田竜夫さん亡き後(2代目社長 健二さんを経て)、3代目社長として辣腕をふるわれた #九里一平 さん。7月1日 急逝されたとの報(享年83)。漫画家としても数多くの作品を執筆なさいました。合掌。

 7月20日は、第27作 [浪花の恋の寅次郎]  
 のマドンナ・ふみ役、松坂慶子さんのお誕生日です。 
 松坂慶子さん、おめでとうございます! 
 因みに、1952年生れで、今年71歳になります。 
 ご参考迄に、名場面の想い出画像ご紹介致します。
橋本忍さん
(1918年4月18日-2018年7月19日)
脚本家、映画監督。
兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居)に生誕。
脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。
家業は小料理屋で、
芝居好きの父親から影響を受けました。
大鉄教習所卒業後、国鉄に勤務。
1938年に応召、
鳥取歩兵四十連隊に入隊(階級は一等兵)するも
粟粒性結核に罹り、
永久服役免除され療養生活に入ります。
1939年に岡山県の療養所にて、
隣にいた兵士の読んでいた『日本映画』という映画の本を読み、
シナリオに興味を持ち、
隣の兵士に「日本で一番偉い脚本家は誰か」と訊ねたところ
「伊丹万作」と返ってきたため、脚本家を志します。
1942年、
療養所を退所して郷里に帰った後に執筆したシナリオ『山の兵隊』を伊丹本人に送ったところ、
思いがけず返信があり、
以降、姫路市の軍需会社に勤務しながら、
伊丹の「唯一の脚本家としての弟子」としてシナリオの指導を受けます。
1946年の伊丹死去の、
翌年(1947年)の一周忌の折りに、
伊丹夫人より佐伯清監督を紹介されました。
1949年、サラリーマン生活のかたわら、
芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書き、
社用で上京した際に佐伯に渡していた脚本が、
黒澤明の手に渡り映画化を打診されます。
黒澤から長編化するよう依頼され、
芥川の短編小説『羅生門』も加えて加筆。
最終的に黒澤が修正して完成させた脚本を基に、
翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、
橋本忍は脚本家としてデビュー。
同作品はヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けました。
1951年に退社して上京し専業脚本家に。
以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、
小国英雄とともに『生きる』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆。
しかし、
黒澤映画への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、
あとはその10年後に『どですかでん』で1度だけ復帰。
その後、
橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高めることに。
代表作に挙げられる
『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『白い巨塔』、『上意討ち 拝領妻始末』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』
などの大作の脚本を次々と手がけ、
論理的で確固とした構成力が高い評価を得ます。
1958年、
KRT(現・TBS)の芸術祭参加ドラマ『私は貝になりたい』の脚本を手がけました。
上官の命令で、
米兵捕虜を刺殺しそこなった二等兵が、
戦犯として死刑に処せられる悲劇を描いたこのドラマは大好評となり、
芸術祭賞を受賞。
翌1959年自身が監督して映画化し、監督デビュー。
1968年、『太平洋の地獄』執筆のため、
米国のロサンゼルスに長期滞在。
東京へ帰った4日後にソ連のモスクワで開催された映画同盟とのシンポジウムに参加。
1973年、
それまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、
「橋本プロダクション」を設立、
松竹の野村芳太郎、東宝の森谷司郎、TBSの大山勝美などが参加し、
映画界に新風を吹き込みます。
1974年に第1作として山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作、
原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、
興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめに。
続いて1977年に、
森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山』を発表し、
当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットに。
わずか3ヵ月後に松竹で公開された『八つ墓村』(脚本担当)も
これに迫る数字をはじき出し、
この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示します。
数年前の『日本沈没』をあわせて、
日本映画史上高額配収ランキング上位に
橋本作品がずらりと並ぶという壮観を呈することに(ちなみに、その殆どが田中友幸プロデュース作品)。
『八つ墓村』は、
この当時人気だった東宝╱角川春樹事務所の金田一耕助シリーズ(監督:市川崑、主演:石坂浩二)が
綿密に構成された「合理的な謎解き」を前面に出していたのに対して、
オカルティズム色を強く出した作品に。
以後、1980年代まで脚本執筆、映画制作と精力的に活動。
しかし1982年、
脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』が、
わずか1週間で興行打ち切りという憂き目にあい、
その後も2本の脚本を書きましたが、
体調不良もあり、以後は事実上引退した状態が続きました。
しかし体調回復に伴い、
2006年に黒澤明との関係を語った著書『複眼の映像 私と黒澤明』を発表。
そして、
2008年に中居正広主演でリメイクされることになった劇場版『私は貝になりたい』で、
自らの脚本をリライト。
2000年、
故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープン。
2018年7月19日9時26分、
肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去。
100歳没。  
(橋本忍)
※7月20日…今日は何の日?
《月面着陸の日・記念日》
*1969年(昭和44年)7月20日…アメリカの有人宇宙船アポロ11号が月面着陸に成功し.人類が始めて月面に降り立ち歩きました!
*ニール・アームストロング船長「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な飛躍である」とのメッセージを発信した!
※懐かしき昭和…思い出
人類が月面着陸後の1年3ヶ月後に…ジョン・F・ケネディ宇宙センター
《NASA TOURS(ナサツアー)》に参加する。
1970年(昭和45年)10月27日
あれから半世紀~もの歳月が過ぎ去りました!
有島一郎さん
(1916年3月1日-1987年7月20日)
俳優。
愛知県名古屋市出身。
旧制名古屋中学校卒業。
有島一郎一座に始まり、
小夜福子一座、劇団たんぽぽ、劇団空気座、松竹大船、東宝芸能を経て、最後はフリー。
俳優・歌手のRomi(成田路実)は孫。
鉄工所経営者の長男として生誕。
日置尋常小学校を経て名古屋中学に入学。
その頃から芝居好きで、
学生時代は学芸会の花形でしたが、
両親が相次いで亡くなる不幸に見舞われ、
自活を迫られます。
1933年、
俳優を目指して当時の人気スターだった田村邦男に弟子入り。
十代で軽演劇の世界へと飛び込みます。
1936年に上京。
新宿のムーラン・ルージュに入り、次第に頭角を現します。
1940年にまさ子夫人と入籍。
有島一郎一座を結成するも長続きせず、
小夜福子一座、水の江滝子率いる劇団たんぽぽと
渡り歩くうちに終戦を迎えました。
終戦直後に堺駿二と劇団空気座を旗揚げするも、すぐに脱退。
結局は、
三木トリロー・グループの池袋公演に出演したことがきっかけとなり、
NHKラジオの『日曜娯楽版』に出演して全国的に有名に。
1947年、『若き日の血は燃えて』で映画デビュー。
1955年から東宝と専属契約を結び、
森繁久彌や三木のり平らと並ぶ喜劇役者としての地位を確立。
1961年から始まった
加山雄三主演の『若大将シリーズ』で
加山の父親役としておばあちゃん (飯田蝶子) には敵わない役を好演。
テレビドラマでは『ありちゃんのおかっぱ侍』で主演。
舞台では菊田一夫率いる「東宝ミュージカルズ」で
三木と共に中心的役割を果たします。
山田洋次監督の『なつかしい風来坊』辺りより、
ペーソス漂う演技で新境地を開拓。
1966年、
『暖春』での演技でアジア映画祭最優秀助演男優賞を受賞。
1972年、専属契約を解除。
フリーになり、
テレビドラマでのレギュラー(『飛び出せ!青春』での杉田良策校長役、
『暴れん坊将軍』での加納五郎左衛門役など)で
当たり役を得ました。
1987年6月1日頃から体調を崩し
松平健主演の明治座舞台を降板し日比谷病院に入院するも、
7月20日午後1時10分に心不全のため死去(享年71歳)。
(有島一郎)

♥️2023💃7/21 小林麻央(34歳没)天国にて𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

♥️2023💃7/21 岩崎恭子(45歳)𝑯𝒂𝒑𝒑𝒚 𝒃𝒊𝒓𝒕𝒉𝒅𝒂𝒚🕺🖤

川谷拓三さん
(1941年7月21日-1995年12月22日)
俳優。
愛称は拓ボン。
左利き。
身長160cm。
大部屋俳優から上り詰め、昭和を中心に活躍した名優の一人。
仁科貴は長男、仁科扶紀は長女、
仁科熊彦は岳父、岡島艶子は義母。
大叔父(実母の叔父)に伊沢一郎。
父・川谷庄平と母・二三子の四男一女の三男として 満州新京(長春)で生誕。
敗戦により6歳のとき一家で満州から引き揚げ、
安芸市(当時・安芸郡安芸町)に住みます。
当時、父は定職がなく、
市内の映画館・太平館の自転車預かり所に働く母が生計を支えていました。
川谷自身も安芸小学校3年のときから母のもとへ出入りしてバイトを始め、
放課後はポスター貼り、看板のかけ替え、
夜は自転車預かりをしながら映画に親しみました。
市立安芸中学に入学した頃、
マーロン・ブランドの『乱暴者』(あばれもの)を見て、
自分も映画俳優になろうと決意し、
中学卒業後の1957年4月に京都へ向かいました。
俳優志望でしたが、氷屋での丁稚時代が2年間程続きます。
1959年秋に18歳で第二東映のエキストラ・グループに入り、
美空ひばり主演の東映作品『ひばり捕物帖 振り袖小判』で死体役としてデビュー。
半年後、
東映京都撮影所の大部屋俳優募集に応じ、1960年4月入社。
日当250円。
斬られ役、殺され役専門で1日3回も死体を演じていました。
大部屋時代の仲間である福本清三とは、
この頃に同じアパートに同居。
1963年10月6日に
大部屋仲間の女優の仁科克子と結婚し、仁科家の婿養子に。
役らしい役がついたのは
1964年の『三匹の浪人』から。
1965年からぽつぽつ役名もつき、
1967年の『日本侠客伝・斬り込み』でマキノ雅弘から初めて台詞をもらいます。
出演を重ねる一方、
この頃の川谷は叔父である俳優の伊沢一郎や
女優の中村メイコ・俳優の大川橋蔵・鶴田浩二・香山武彦・内田良平らの付き人をしていました。
1971年の『懲役太郎・まむしの兄弟』、
ATG作品『鉄砲玉の美学』、
東映作品『現代やくざ 血桜三兄弟』と、
中島貞夫が川谷を起用し、
『現代やくざ 血桜三兄弟』では
日本映画初の全身火だるまになる役を体当たりで演じ、
1974年には『史上最大のヒモ・濡れた砂丘』で初主演。
前後して
1973年の『仁義なき戦い』の第1作で演じた、
ヤクザ・江波亮一役の死にっぷりが深作欣二監督に認められて次作への出演が決まり、
以降同シリーズに出演。
第2作『仁義なき戦い 広島死闘篇』では
モーターボートで海中を引きずり回された挙句、
木に吊るされピストルやライフルの標的にされて無残な死を遂げたチンピラに扮しました。
第3作『仁義なき戦い 代理戦争』では
出演予定されていた荒木一郎の降板により急遽代役を選考するなか、
山城新伍・成田三樹夫・渡瀬恒彦ら出演者の推薦もあり、
女に捨てられ敵に抱き込まれるチンピラ・西条勝治を演じました。
川谷もこの作品で初めて名前がポスターに載り、
川谷にとっては至福の瞬間でした。
『県警対組織暴力』(1975年)ではチンピラヤクザである松井卓を演じ、
菅原文太・山城の両刑事に取調室でいたぶられる迫真の演技によって
京都市民映画祭の助演男優賞を受賞。
この頃まではまだ撮影所だけで通用する金券でメシを食いつなぐ程貧乏だったといいます。
深作欣二監督は
『新仁義なき戦い』3部作(1974年 - 1976年)、
『資金源強奪』(1975年)、
『やくざの墓場 くちなしの花』『暴走パニック 大激突』(1976年)、
『ドーベルマン刑事』(1977年)と川谷を配役し続け、
その存在が次第に大きく認知されていくことに。
『県警対組織暴力』の出演後、
同年10月にテレビドラマ『前略おふくろ様』に出演。
同じ東映の名バイプレーヤー・室田日出男とともに鳶職人・利夫として出演。
同ドラマでは本物の酒が使われ、
川谷、室田のコンビは酒癖がわるく、
萩原健一も災難にあうことに。
このコンビは1976年の映画『トラック野郎・望郷一番星』にもコンビで警官役を演じました。
以後、本作をきっかけにお茶の間にも広く知られるように。
1975年には、
室田や大部屋仲間の志賀勝・岩尾正隆らと
酒飲み仲間としての集まりでピラニア軍団を結成。
テレビや雑誌などで特集を組まれ、
ピラニア軍団の総出演の映画の企画の一つとして
翌1976年公開の『河内のオッサンの唄』で一般映画の初主演を果たし、
同年『河内のオッサンの唄 よう来たのワレ』や
『ピラニア軍団 ダボシャツの天』(1977年)にも主演。
また、この頃から
「真面目だけどどこか抜けている役」のオファーが増加。
大部屋俳優として専属契約していた東映から独立し、
それと前後して活動の拠点を東京に移し
1978年のNHK大河ドラマ『黄金の日日』や、
『愛の亡霊』に出演。
川谷が大ブレイクしたのは『黄金の日日』出演が切っ掛け。
日本中どこへ行っても
「ゼンジュボウ!(杉谷善住坊)」「ドンベイ(どん兵衛)!」などと声を掛けられるように。
テレビの仕事がどっと舞い込み、
1979年には『さらば映画の友よ インディアンサマー』に主演した他、
同年夏にはそれまで2本掛け持ちもしたことがなかったものの、
『不毛地帯』(MBS)『家族サーカス』(CX)『やる気満々』(TBS)とテレビドラマ3本を掛け持ち。
CMは10社以上からオファーがあったといいます。
1980年には
刑事ドラマ『警視-K』(日本テレビ)にレギュラー出演(第9話まで)。
1980年5月23日放送『徹子の部屋』出演。
『ダウンタウン物語』(1981年、日本テレビ)では
貧乏牧師というシリアス役を演じ、
1982年には、
桜中学シリーズ・『3年B組貫八先生』(TBS)に
主演、苦労人の担任教師・神崎貫八を演じました。
映画では
『キッドナップ・ブルース』(1982年)、
『真夜中のボクサー』(1983年)、
『伽耶子のために』(1984年)など助演したのち、
1985年には『薄化粧』と『ビルマの竪琴』の演技によって、
日本アカデミー賞の優秀助演男優賞にノミネート。
『男はつらいよ 柴又より愛をこめて』にもゲスト出演し、
愛妻に先立たれロシア語辞典編集に携わる堅物の父親役を演じました。
1987年には『塀の中の懲りない面々』に出演し、
弱虫なのに反抗心旺盛の出っ歯の囚人を演じ、
1988年には、
村祭りの事故で寝たきりになる父を演じた『母』と『つる -鶴-』に出演し、
再び日本アカデミー賞の優秀助演男優賞にノミネート。
テレビドラマでは、
大河ドラマ『山河燃ゆ』(1984年)、
『國語元年』(1985年)、
銀河テレビ小説『月なきみ空の天坊一座』(1986年)、
NHK連続テレビ小説『チョッちゃん』(1987年)
などNHK作品にも立て続けに出演。
『風よ、鈴鹿へ』(1988年)では
鈴鹿8耐に毎年連続参戦していた実在のレーサー・千石清一を好演。
『座頭市』(1989年)、
『陽炎』(1991年)、
『継承盃』(1992年)にも出演。
映画『撃てばかげろう』(1991年)では
スケジュールの関係で断っていたものの、
原作者の野村秋介から直々に毛筆でしたためた出演オファーの手紙をもらい、
台本を読んでみて、
かつて川谷が演じたことのないヤクザ像が描かれており、
この作品をいたく気に入り快諾し、出演。
『おろしや国酔夢譚』(1992年)、
SF青春映画『はるか、ノスタルジィ』(1992年)、
『首領を殺った男』(1994年)、
『プロゴルファー 織部金次郎2 〜パーでいいんだ〜』(1994年)
など幅広く活躍。
第二次世界大戦の太平洋戦線において
過酷を極めたフィリピン戦線の傷跡をドキュメンタリー形式でたどる
ドラマ『北緯15°のデュオ〜日本初の神風特別攻撃隊の軌跡〜』(1991年、日本映画復興会議奨励賞受賞)や
テレビ東京の年末特別企画番組『チャイナ・オリエント急行、中国横断3700キロ 〜川谷拓三心の旅〜』(1991年)などにも主演。
NHKの『歴史誕生 / 地球を測った男』(1991年)では主役の伊能忠敬役を、
同じくNHKの『歴史ドキュメント・桜田門外の変』(1993年)では主役の関鉄之介役を演じます。
トーク番組やバラエティ番組(後述)にも多く出演しており、
日本テレビ『EXテレビ』の「芸能才人図鑑」のコーナーにゲスト出演(1993年)、
『いつみても波欄万丈』(1994年5月8日放送)、
『痛快!明石家電視台』などにゲスト出演。
1995年6月下旬に体調を崩し
7月に東京の病院に検査入院を行いました。
川谷も10月からは京都に移り、
京大付属病院に入院するも12月22日午後8時30分、
肺癌のため死去。
54歳没。
(川谷拓三)
『スケバン刑事』Ⅰ~Ⅲ  1985~1987 斉藤由貴・南野陽子・浅香唯
ぶっとんだドラマでした。😀
☆各スケバン刑事の決め台詞。
①『スケバン刑事』(放映:1985年、主演:斉藤由貴)
『鷹の羽学園2年B組麻宮サキ、いままたの名は、スケバン刑事!。
スケバンまで張ったこの麻宮サキが、何の因果か落ちぶれて今じゃマッポの手先。笑いたければ笑うがいいさ…。だがな!てめえらみてえに・・(以下は敵によって変更) 許しちゃおけねえんだ!』
②『スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説』(放映:1985年 - 1986年、主演:南野陽子)
『梁山高校2年B組(途中から3年B組へ進級)麻宮サキ、またの名をスケバン刑事!(ここで桜の代紋を見せる)
鉄仮面に顔を奪われ、とおとななとせ(17年) 生まれの証しさえ立たんこの“あてぇ(自分、私の意)”が何の因果かマッポの手先…おまんら、許さんぜよ!』
③『スケバン刑事III 少女忍法帖伝奇』(放映:1986年 - 1987年、主演:浅香唯)
『星流学園1年B組(途中から2年B組)風間唯。またの名を3代目スケバン刑事・麻宮サキ! ○○○○…、許さんかいね!』😀
船越英一郎さん
(1960年7月21日-)
俳優、タレント、司会者。
身長181cm。
神奈川県足柄下郡湯河原町出身。
日本大学三島高等学校、
日本大学藝術学部映画学科卒業(同級生に真田広之)。
父は俳優の船越英二、
母は長谷川裕見子。
大叔父は長谷川一夫(後妻・飯島繁が英一郎の祖母・飯島まつの妹)。
伯父は三島謙(本名:船越栄太郎)。
元妻は女優の松居一代。
母方の曾祖父は鉄道工事で一時名を成した飯島組創業者の飯島次郎。
妹は平野洋子。
父・船越英二が営む湯河原町の旅館を継ぐことを拒み、
役者の道を志し、
1982年、石井ふく子プロデュース『父の恋人』でデビュー。
1986年、
ロックミュージカル劇団「MAGAZINE」を主宰。
脚本と演出を担当。
1997年には戯曲集「BRAKERS」を出版。
1999年放映のテレビ朝日系連続ドラマ『舞妓さんは名探偵!』から狩矢警部役を演じており、
テレビ東京系「女と愛とミステリー」『京都新婚旅行殺人事件』を経て、
TBS系「月曜ゴールデン」「狩矢警部シリーズ」で主役に昇格。
2001年、松居一代と結婚。
船越は初婚でしたが、松居は再婚で連れ子もいました。
しかし、
結婚後は夫婦仲・親子仲の円満さが伝えられ、
バラエティ番組出演の際なども、
家族の話題が取り上げられることが非常に多数。
2時間ドラマへの出演が顕著で、
在京民放5局の2時間ドラマすべてに主演作品がある唯一の俳優と言われます。
その出演回数の多さから、
「2時間ドラマの帝王」や「サスペンスドラマの帝王」、「ミスター2時間ドラマ」などの異名を持ちます。
2時間ドラマの初主演は、
2003年『火災調査官・紅蓮次郎』でしたが、
その時点で膨大な数の準主演作(主にヒロインのパートナー役)があり、
すでにミスター2時間ドラマでした。
趣味はアニメビデオの収集や漫画。
CS放送フジテレビ721の『週刊少年「」』にも出演。
番組の初回で取り上げた『ジョジョの奇妙な冒険』のような
連載が長期にわたるシリーズ作品に関しても、
精通ぶりを披露。
2006年、
毎年11月22日の「いい夫婦の日」にちなんで贈られる『パートナー・オブ・ザ・イヤー』を松居と共に受賞。
芸歴25年を迎えた2007年の4月期に、
『その男、副署長〜京都河原町署事件ファイル〜』で、初めて連続ドラマの主演。
2004年には
日本テレビ系『ぐるぐるナインティナイン』内の
「ゴチになります!」にレギュラー出演するなど、
バラエティ番組にも活動の幅を広げています。
(船越英一郎)
平尾昌晃さん
(1937年12月24日-2017年7月21日)
作曲家、作詞家、歌手。
社団法人日本作曲家協会・常務理事、社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)理事などを歴任。
化粧品業を営んだ平尾聚泉の孫。
クラシックの作曲家で国立音楽大学教授を務めた平尾貴四男は伯父。
東京市の牛込(現:東京都新宿区)「生まれ」ですが、
終戦後、神奈川県の湘南エリアに移住し、
藤沢市にある湘南学園で小中学時代を送りました。
幼少時にたびたび改名し、
デビュー初期の芸名である「昌章」を経て、
最終的には本名の通り平尾昌晃を芸名としていました。
小学3年生のとき、
自宅に来ていた将校から貰ったジャズのLPを聴き衝撃を覚え、
11歳のとき、
のど自慢大会に出場し「奥様お手をどうぞ」を英語で歌い、
鐘3つの合格点をもらいます。
藤沢市に住み、ジャズ教室に通い、
朝丘雪路、水谷良重、ペギー葉山らと知り合います。
慶應義塾高等学校中退後、
ウエスタンの人気バンド、チャック・ワゴン・ボーイズに入り、
しばらくして、
チャック・ワゴン・ボーイズはボーカルの小坂一也が脱退したため、
オールスターズ・ワゴンに。
1957年、
ジャズ喫茶「テネシー」に出演していた際、
ステージを見た渡辺プロの渡辺美佐と映画監督井上梅次に見初められ、
同年に公開された石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』に出演。
自身としても、翌1958年1月、
キングレコードより「リトル・ダーリン」でソロ・デビュー。
続いて同年3月に発表した「監獄ロック」が10万枚を売り上げるヒットに。
その後、
ミッキー・カーチス、山下敬二郎(後にこの2人は渡辺プロに所属する)と「ロカビリー三人男」として
「日劇ウエスタンカーニバル」などで爆発的な大人気を博しました。
1958年には、
キングレコードからオリジナルナンバーである「星は何でも知っている」
1960年4月には
「ミヨチャン」(ミヨちゃん)を発表し、
2曲共に100万枚を売り上げる大ヒットに。
ポール・アンカが作詞・作曲した「好きなんだ! (I Love You)」は、
日本での売上は10万枚程度に留まりましたが、
ハワイでは地元ラジオ局KPOIが流したことをきっかけに
リクエスト・ランキングで1位を記録する大ヒットに。
1959年12月、
ハワイで開催された「アメリカン・ポップス大会」では、日本代表として歌唱。
ロカビリーブームが去った1965年頃、
北海道からじわじわ火がつき始めた「おもいで」で再ブレイク。
「おもいで」は、
渡辺プロの新人歌手だった布施明が1966年に再レコーディングし、
これもヒット。
続けて、
作曲家として「霧の摩周湖」「恋」、
じゅん&ネネ「愛するってこわい」、
梓みちよに提供した「渚のセニョリーナ」などがヒット。
「霧の摩周湖」、「渚のセニョリーナ」では、
第9回日本レコード大賞作曲賞を受賞。
その後も作曲家として非凡な才能を発揮していましたが、
1968年12月3日、
結核を患い健康保険岡谷塩嶺病院への長期間入院による療養を余儀なくされ、
翌1969年5月と6月に2度にわたる大手術を経て、肋骨を6本取り除きます。
1969年11月30日に退院。
1970年代に入ると、
ソフトな演歌から穏やかなポップス調まで様々な作風の曲を、
五木ひろしや小柳ルミ子、アグネス・チャンらに提供。
作詞家の山口洋子とのコンビは、
この時代を代表するゴールデン・コンビとして知られています。
1974年、
平尾昌晃音楽学校(現:平尾昌晃ミュージックスクール、HMS)を創立。
同校出身者は
狩人、畑中葉子、川島なお美、石野真子、松田聖子、川崎麻世、大沢逸美、森口博子、芳本美代子、笹峰愛、倖田來未、後藤真希、西田あいなど。
歌手としては、
生徒の一人である畑中葉子とデュオを組み、
「カナダからの手紙」「ヨーロッパでさよなら」などのヒットを出しました。
また、
彼が日本でのデビューのきっかけを作ったアグネス・チャンとも、
「香港国際空港(CHEK LAP KOK空港)」で
デュオを組みました。
1970年代のNHKの人気番組『レッツゴーヤング』の司会などにも携わる一方、
『平尾昌晃の部屋』など、ラジオ番組のパーソナリティも務めました。
その他、
人気テレビ番組『熱中時代』での「僕の先生はフィーバー」、「やさしさ紙芝居」、
『熱中時代-刑事編』の「カリフォルニア・コネクション」の他、
ABC発テレビ朝日系時代劇の『必殺シリーズ』、アニメ『銀河鉄道999』などの音楽を手がけました。
また1980年代初頭から宝塚歌劇団の舞台音楽も手がけておりました。
音楽活動のみならず、
『ものまねバトル』(日本テレビ系)の審査員、
チャリティゴルフの企画など、幅広く活躍。
俳優としても、『二階の他人』などに出演。
競走馬オーナーとしては中央競馬で3勝したスーパーミヨチャンなどを所有。
また、
ジャパンカップ優勝のローズキングダムの一口馬主でもありました。
オートレースのファンとしても有名で、
川口オートレース場には年間ボックスシートを持っているほど。
作曲者としても川口オートのテーマソングとなる『ぶっちぎりの青春』を提供。
2001年、モンブラン国際文化賞受賞。
2002年、
特定非営利活動法人ラブ&ハーモニー基金を設立、音楽を通じた福祉活動を展開。
2003年、紫綬褒章受章。
2004年に三男の平尾勇気が歌手デビュー。
2005年、
歌手を目指す若い人、生徒のために自主レーベルのHMSレコードを立ち上げて、
優秀な生徒をCDデビューさせています。
2006年、
大晦日の『第57回NHK紅白歌合戦』では同年3月に逝去した宮川泰の後を受け
「蛍の光」の指揮者に就任し、
2016年の第67回まで11年間務めました。
肺結核で片肺を切除して以来、肺疾患が慢性化。
たびたび体調不調に悩まされました。
2014年末には
原発性肺高血圧症に起因する肺炎で危篤状態となるも、
この時は奇跡的に持ち直しています。
2015年に肺がんであることが判明。
体力面を考慮して手術を回避。
以降は呼吸補助器を携行しながら、
公の場にも積極的に顔を出していました。
その後2017年5月「息苦しい」と訴え約1か月にわたって入院。
一時は回復したものの、
同年7月13日に「蒸し暑く体調が悪い」と訴え、
病院で検査の結果「肺炎の疑い」との診断で入院。
7月21日深夜に容体が急変。
病院にかけつけた夫人や数人の親族に看取られ、
同日23時40分、
肺炎のため東京都内の病院で急逝。
79歳。
(平尾昌晃)
川地民夫さん
(1938年7月21日-2018年2月10日)
俳優。
神奈川県逗子市出身。
神奈川県逗子市に生誕。
逗子開成高等学校卒業、関東学院大学工学部中退。
大学1年の頃に逗子の家の隣に石原裕次郎が住んでいたのが縁で
裕次郎の勧めもあり日活に入社。
1958年、『陽のあたる坂道』でデビュー。
小林旭、沢本忠雄と「三悪トリオ」として売り出し、
アクション物、青春物に次々と主演。
その後、
脇役に転じてから独特の個性に磨きがかかり、
特に1963年の『野獣の青春』以来、
鈴木清順監督に重用されました。
日活退社後は、東映への出演が多く、
特に1971年から9本作られた『まむしの兄弟』シリーズで見せたユーモラスな演技は、
大いに人気を博しました。
1980年代、
当時の妻のがん闘病と死去の悲しみ、
川地自身の脊椎の怪我や胃潰瘍等に1990年代初頭まで苦しめられるなど
自身の健康上の問題で苦労していた時期もありましたが、
これらを克服し仕事に復帰。
私生活では、
3度の結婚(離婚と死別を各1度)、
また事実婚とその破局を1度経験。
2018年2月10日午後4時59分、
脳梗塞のため神奈川県横須賀市内の病院で死去。
2週間前の1月に逗子市内の自宅で倒れそのまま一度も意識が戻ることなく、
夫人や親友に見守られて苦しむことなく眠るように息を引き取り死去。
79歳。
(川地民夫)
侍ジャイアンツ⚾
どの魔球も投げれないかチャレンジしました(笑)
『時をかける少女』1983 原田知世
1983年7月16日に公開された大林宣彦 監督、原田知世さん初主演の映画。『時をかける少女』の最初の映画化作品。
主演の原田知世さんは、第7回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。配収は28億円を記録し、邦画では83年、年間2位となりました。でも二本立ての併映は薬師丸ひろ子さん主演の『探偵物語』で、観客動員は保証されていたんですね。『豪華二本立て』でした。😄
原田知世さんは真田広之さんのファンで、映画『伊賀忍法帖』での真田さんの相手役を探す『角川映画・東映 大型女優一般募集オーディション』に応募し、そこで角川春樹プロデューサーの目に留まり『特別賞』を受賞し芸能界入りしました。
私、この映画上映時は仕事の関係で沖縄にいました。那覇の映画館で観た最初の映画でした。当時のこと思い出します。
よく映画を見たり、歌を聞いて昔を振り返ると言いますが本当ですね。😅

アイドル全盛期、親衛隊には連合と同盟が存在してましたが⁉️連合は怖かったっすよ✨💘