【世界平和】人類はみんな家族!!Apex product⑭
争いは、やめましょう。世界の平和を願います!!
何故、今だに世界の至る所で揉め事や争いごとが絶えないのでしょう。政治や宗教での自国間の争い、差別、派閥、どうして起こるのですか。アジアの仲間同士どうして普通に暮らせないのですか。誰が、考えても平和な社会が良いに決まっています。小さな子供でも理解出来る事を分別のある大人や政治家が、何故、争うのでしょう。人は何故争わなければいけないのでしょう。欲を捨て本来の裸で生まれた人間同士うまくやっていけないのでしょうか。それぞれ、己が正義と思い事を成すでしょうが、少しだけ立ち止まり、力を抜いて音楽を聴いてみてはいかがですか。きっと心に響く1曲があるはずです。そして貴方の幼い頃。そうです。純粋だったあの頃。思い出して下さい。人前に出るのもおどおどして、母親の影に隠れていた優しい子。正義の旗の元、どんな理由があっても人殺しです。無差別に殺しあう戦争が、どんなに愚かな事でしょう。本来のあなたに戻って下さい。きっと戻れます。先人がどれだけ血を流し我々に生きて伝えたかった事でしょう。だからだから、お願い致します。下記に、あげる資料・画像を見て一人でも多くの人に伝えて下さい。いかに、平和が大切で、人の命が尊いのか。本気で考えて下さい。弊社は、真剣に取り組みます。誰に非難されても、私達は訴え続けます。一生を掛けて取り組む問題だからです。是非ご賛同頂き、少しでも悲しい人を作らないようにしましょう。
平和ほど、尊いものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、
根本の第一歩であらねばならない。
【あたりまえ】
あたりまえの幸せが
ほんとはあたりまえなんかじゃなく
生きてることさえ、あたりまえじゃない!
だいすきな仕事ができる身体と心も
環境があることがどんなに幸せなことか
ちょっと疲れたら横になれる
ふかふかなベッドがあることがどんなに幸せなことか
朝起きたら、心臓が動いてて
伸びをして、深呼吸して
朝日を浴びることが
どんなに幸せなことか
何をするにも、必ず誰かの助けや支えがあることが
どーんなに幸せなことなのか。
とっくに気づいてるはずなのに
いちばん大切なことはおろそかにしがちなんだよね。
ほんとは
世界は地球は
もっともっと、愛にあふれてるんじゃないのかな
- 青空と向日葵の会 Apex product 社員一同 -
【連絡先】
31歳ひ孫が語り部に 「特攻の母」の思い受け継ぐ 鹿児島・知覧
「特攻の母」と呼ばれ、高倉健さん主演の映画のモデルにもなった鳥浜トメさん(1992年に89歳で死去)のひ孫拳大(けんた)さん(31)が、トメさんの戦争体験などを伝える語り部として奮闘している。亡き父の後を継いで、2年前に特攻隊員の記録を伝える資料館の館長に就任。隊員を親身に世話したトメさんや隊員のことを知ってほしいと、来館者を迎えている。【取違剛】
トメさんが鹿児島県知覧町(現・南九州市)で営んだ「富屋食堂」は太平洋戦争中、旧陸軍の指定食堂になり、近くの知覧飛行場の少年飛行兵らが通った。戦況が悪化し飛行場が特攻基地になると家財を売ってまで食材を集め、出撃を控える隊員らにごちそうを出した。隊員らもトメさんを母のように慕った。当時のエピソードの一つが高倉さん主演の映画「ホタル」(2001年)のモチーフになった。
トメさんが語っていた隊員の話を後世に伝えるため、拳大さんの父明久さんらが01年、富屋食堂を復元する形で「ホタル館 富屋食堂」を知覧町に開館した。知覧で生まれ育った拳大さんは岡山県の大学を卒業後、広島市の自動車関連会社で働いた。しかし、明久さんが体調を崩した18年に地元へ戻り、明久さんが60歳で亡くなった21年に館を継いだ。新型コロナウイルスの影響で運営は苦しいが、来館者などへの講話は100回を超えた。
拳大さんにトメさんの記憶はないが、幼い頃から明久さんからトメさんと特攻隊員のことを聞いてきた。「おばちゃん、僕はホタルになって帰ってくるよ」と言い残して飛び立った20歳の軍曹、「日本は負けるよ」とあけすけに語り「そんなことを言ったら憲兵に連れていかれる」とトメさんを心配させた少尉などのエピソードだ。
語り継がれてきた隊員らの素顔は、どこまでも人間くさかった。「(特攻隊員は)『自分たちと違う人』ではない。まだ生きて、いろんなことをしたかったと思う」。戦死した隊員の思いを想像し、平和な世の中でより強く、楽しく生きてもらいたい――。それがトメさんと明久さんから受け継いだ拳大さんの願いだ。
拳大さんは、明久さんがトメさんの味を守ってきたお食事処(どころ)「知覧茶屋」の料理長としても腕を振るう。看板は豚の骨付き肉を煮込んだ郷土料理「とんこつ」や鶏とゴボウの釜飯。昔の富屋食堂でトメさんが出していたメニューだ。「特攻隊員のことを誰にも忘れてほしくない。記憶の片隅にでも残ってくれたらうれしい」。拳大さんは、語りと味で伝え続ける。
旧陸軍知覧基地
1941年12月、大刀洗陸軍飛行学校の分校として鹿児島県知覧町(現・南九州市)に開設され、45年3月、沖縄に最も近い本土最南端の特攻基地になった。沖縄戦には九州・山口の他、日本統治下の台湾からも陸軍の特攻機が出撃し1036人が戦死。最多の439人が知覧から出撃した。
《「爺」「皿婆」…》上皇・上皇后へのネット誹謗中傷の深刻な実態 名古屋大・河西秀哉氏が指摘
美智子さまと上皇陛下 ©時事通信社
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「爺」「婆」「皿婆」などと
秋篠宮家に「裏切られた」
「文藝春秋」編集部/文藝春秋 2023年11月号
泳げない15歳の少年兵は「おかあーさん」と叫びながら沈んだ…「戦艦武蔵」生還兵の忘れられない光景 「おれたちをここまで追いつめたものは、何なんだ」
1944年10月、世界最大の戦艦「大和」の姉妹艦「武蔵」は、レイテ沖に向かう途上撃沈された。武蔵が沈んだとき、乗組員たちはどうなったのか。武蔵に乗船し、沈没から生還した渡辺清さんが遺した戦記文学『戦艦武蔵の最期』(角川新書)より一部を紹介する――。
武蔵の沈没は寸前に迫っていた
武蔵は甲板にうごめいている乗員の絶望と恐怖を乗せたまま、左側へじわじわと傾いていく。海はそぎたった白い牙をむいて、いつでも呑みこんでやろうと、舷側をくわえこむようにして嚙んでいる。艦べりはもう海面すれすれだ。もはやいかなる処置も、この傾斜を押しとどめることはできないだろう。沈没は寸前に迫っているのだ。
おれはまわりの騒ぎに巻きこまれながら、おぶってきた村尾を急いで三番主砲のわきにおろした。だが、ここまで連れだしてきて見捨てるわけにはいかない。何か手につかまるものをあてがって海に飛びこませてやろう。火にあぶられるように、甲板の上でじりじりと死の瞬間を待っているよりそのほうが楽だろうし、あるいはひょっとして助かるかも知れない。
おれはそう思って、甲板におろしたあともおれのズボンの裾にしがみついている村尾の耳に口をあてて叫んだ。
「ちょっとここで待ってろ、いまなにか探してくるから、いいか、ここを動くな」
だが、村尾はそれでおれに見離されたと思ったらしく、「いかないで、ねえ、いかないで……」と、はげしく顔をふってわめいた。
「ばか、いくもんか、すぐ戻ってくるから……」
甲板をゆるがす轟音が聞こえ、血しぶきが飛んだ
おれはいって、急いで村尾の手をもぎ離した。後部の短艇庫にいけば、壊れたランチかカッターの板切れか何かあるだろうと考えたのだ。村尾の叫び声をうしろに聞きながら、おれは後部にむかって駈け出したが、五、六歩いって、鉄甲板の波よけをまたいだ時だった。
突然、甲板をゆるがすような物凄い音が背後に聞こえた。同時に耳もとをサッと風がかすめた。右舷に移動してあった防舷物が傾斜のあおりをくって転げだしたのだ。その音といっしょに悲鳴があがった。血しぶきが飛んだ。何人かがそれに押し潰されたらしい。
おれは腰をかがめて思わず振りむいたが、見ると、いまのいまそこにおろしたはずの村尾の姿がどこにも見えない。
「村尾ー、村尾、村尾ーッ」
おれは大声で村尾の名を連呼したが、返事がない。
暗くてあわてていたせいもあって、おれもまさかあの防舷物がロープもかけずにおいてあるとは気がつかなかったが、重さ四十貫もある嵩だかの防舷物だ。村尾も、おそらくその下敷きになって海に巻かれてしまったのかも知れない。だが、それ以上、彼の行方をさがすだけの余裕はおれにはなかった。
「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」
艦の傾斜はすでに二十度を超えていた。右舷が大きくせり上がってきているので、ちょうど片屋根の上にでも乗っかっているような感じだ。おまけにそこらじゅうに血糊が散っていて滑るので、立って歩くのがやっとだった。
おれは三番主砲の前に立って、いっときどっちへ出ようか迷ったが、足はしぜんに後甲板にむいた。後部のほうが飛びこむのに比較的安全だという固定観念があったのである。村尾をおぶってからずり落ちていたズボンのバンドを締め直しながら、おれは急いで三番主砲の塔壁を右へと廻りこんでいった。
するとその時だ。ざわめいている後ろのほうから、
「御真影だ、御真影だ、どけ、どけッ」
と、人をどかすのを当然と心得たような、居丈高な叫び声が、耳を刺すように聞こえた。
おれは反射的に足をとめて後ろを振りかえった。
見ると晒布で包んだ大きな額をたすき掛けに背中に背負った二人の下士官が、まわりを四、五人の士官たちに守られながら、先頭に立って叫んでいる先任衛兵伍長と衛兵司令の後ろから、傾いたマストの下をこっちにやってくる。それが「御真影」らしかった。
写真1枚を運び出すために甲板は大混乱
武蔵ではふだん「御真影」は右舷上甲板にある長官公室に納めてあった。旗艦をやめて連司(連合艦隊司令部)がおりてからも同じ場所だったが、出撃の際、損傷しては畏れおおいというので、特に下甲板の主砲発令所の中に移した。ここは四方を厚いアーマーで囲ってあって、どこよりも安全だったからである。それをいま艦長の命令でわざわざ下の発令所から出してきたのだ。
「御真影」と聞いて、おれははっとしてみんなといっしょにあわてて道を開けたが、「御真影」の一団は、まるで箒で落ち葉でも掃き散らすように、そこらにおろおろしている兵隊たちを、手を振って押しのけ、突きとばし、甲板を這いまわっている負傷者の頭の上を乱暴にまたぎながら、しゃにむに艦尾のほうへ抜けていった。そのため、それでなくても混乱している甲板は、一層攪乱された。
それを見ておれは、この火急の場合に「御真影」は出さずそっとしておいたほうがいいのにと思った。武蔵も「天皇の艦」である以上、それが「大事な写真」にはちがいないが、写真はあくまでも写真である。生身の天皇でも皇后でもない。それよりも今はできるだけ無用な混乱は避けて、一人でも多くの兵隊が無事に退去できるように考えるのが本当ではないか。
おれはうっかり頭を下げなかった
それにあの二人の下士官だって、命令とはいえ、あのガラス入りの重い額を背負ったまま飛びこんだところで、おそらく自由には泳げないだろう。ひょっとしてあの紙片一枚のために、助かる命も助からないのではないかと思って、おれはうっかり頭も下げなかった。
いまは死ぬか生きるかの瀬戸際、「御真影」どころではなかったのだ。おれは「御真影」の一団をそっけなくやり過ごしておいて、再び後甲板のほうへ急いだ。なにか適当な浮遊物を探そうと思ったのである。
鉄甲板が血のりで滑るので、ときどき四つん這いになって進んだ。おれの前後左右を、やはり同じような恰好でうろたえた兵隊たちが駈けていく。その間をぬって、あっちこっちから、恐怖にかられた兵隊たちの喚き声がひっきりなしに聞こえた。
「沈むぞッ、早く飛びこめ、早く、早く……」
「そっちゃ危ない、渦に巻きこまれるぞ、右へまわるんだ」
「おーい、おれは泳げないんだ。誰か、おい、誰か助けてくれッ」
「タキモトはいないか、タキモト、タキモト……」
「服はぬぐなッ、いいか、着たまま飛びこめ、冷えてしまうぞ……」
舷側から艦内に残っていた角財や道板、マット、釣り床などがつぎつぎに海に投げこまれた。
「お母あーさん、お母あーさん……」
そのあとから兵隊たちが、ぶつかり合いながら転げおちるように飛びこんでいく。しかし角材や道板の数は知れたものだった。すでにその大方を応急作業に使いはたしていたので……。だから退去がおくれてそれにあぶれたものは身一つで飛びこまなければならなかった。そして数からいってもそのほうがずっと多かった。そのため波に呑まれてそれっきり浮かんでこないものもかなりあった。
みんな先を競って飛びこんだが、なかには飛びこむ決心がつかなくて、血相かえてそこらを狂ったように飛び廻っているものもいた。泳げない兵隊たちだった。
艦尾のジブクレーンと旗竿のまわりにも、そういう泳ぎのできない兵隊たちが、途方にくれて一つところを意味もなくぐるぐると廻っていた。大抵まだ入団して日の浅い十五、六歳の少年兵だった。
戦局が逼迫していたので、彼らは海兵団でも泳法はほとんど教えてもらえなかった。ただ短期の速成教育をうけただけで、そのまま艦に送りこまれてきたのだ。そのうちの三、四人が、肩をくっつけ合って斜めに傾いた旗竿にしがみついて叫んでいる。
「お母あーさん、お母あーさん……」
おれたちをここまで追いつめたやつは、誰なんだ
声がわれたように咽喉にからんでいるのは涙のせいだろうか。恐怖に舌がひきつれているせいだろうか。暗くてよくわからないが、その顔はおそらく真っ青に凍りついているにちがいない。額には脂汗がぶつぶつ玉になって吹いているにちがいない。
おそろしい死を前にして、彼らの最後のよりどころはおっ母さんだ。ほかの誰でもない。たった一人のおっ母さんだ。だが、そのおっ母さんはここにはいない。おっ母さんは遠い遠い遙かな海の向こうだ。いくら呼んでも叫んでも海の向こうのおっ母さんには聞こえはしない。とどきはしない。だが、それでもやはり母を呼ばずにはいられないのだ。
「お母あーさん、母あちゃーん、母あちゃーん……」
おれは彼らのそばを駈けぬけたが、どうしてやることもできなかった。手ひとつ出してやることもできなかった。ひと声、声をかけてやることすらも……。おれは自分のことしか考えていなかった。自分のことだけで精一杯だった。
それにしてもおれたちをここまで追いつめたやつは、一体誰だ、誰だ、誰なんだ……。突然、はじけるような激しい怒りが、胸いっぱいに突きあげてきた。それを誰にむけていいのかわからなかったが、おれは口の中でのろい声をあげつづけた。
彼らはきっと旗竿にしがみついたまま、艦と運命をともにしてしまうだろう。海中にひきずり込まれてしまうだろう。そしておそらく暗い海底に引きずりこまれていきながらも、なお声をかぎりに母の名を呼びつづけているにちがいない。
のどを裂くような彼らの叫び声は、いつまでもおれの耳について離れなかった。
真珠湾攻撃を裸の王様と看破した中学生・笠原和夫(仁義なき脚本家)
南雲忠一率いる機動部隊がアメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島にある米軍基地を奇襲しました。
ご存知、真珠湾攻撃です。
世界中に衝撃を与えたこの奇襲。
アメリカ本土でも様々な反応がありました。
その詳細は以下の記事にお譲りさせていただくとして、
それでは日本での反応はどうだったのでしょう。
過去の戦争話ともなりますと、すでに結果が見えていることもあり『強引な判断を押し進めたのは一体誰なんだ』となりがちですが、逆に結果が見えてない人にとっては様々な思いを抱くシチュエーションであります。
当時の庶民はアメリカへの攻撃をどのように考えていたか。
中には、まだ中学生ながら「敗戦をハッキリと予感していた」笠原和夫氏のような人物もおりました。
開戦を喜ぶ人々「ついにこの日が来た!」
奇襲を受けたアメリカが激怒していた頃。
日本では『アメリカとも戦争を始めて、我々の未来は恐ろしいことになる……』なんて声は少数派で、むしろ『ついにこの日が来た!』と喜ぶ人たちが大勢いました。
例えば、徳富蘇峰、太宰治、正宗白鳥、長与善郎、伊藤整、上林暁といった作家たち。
彼らは、真珠湾攻撃を感動と共に受け入れました。
もちろん相応の理由はありました。
当時、日本は国際的に孤立していました。
昭和8年(1933年)に国際連盟脱退を表明してからというもの、世界中から圧迫感で包まれているような状況。
ゆえに、真珠湾攻撃は「虎の尾を踏んだ」というより、むしろ「閉塞感が打破された!」と考える人が多かったのです。
「ついにこの日が来た」というのは、戦争自体を賛美しているのではなく、苦境を打破するキッカケになるのではないか、という期待感だったんですね。
町ゆく人々はラジオを聞き入り、頰を紅潮させていました。
感極まって涙をこぼし、「僕の命も捧げねばならぬ」と思った坂口安吾のような人もいたのです。
かくして庶民の日常生活も急速に変貌しつつありました。
『もうこれからはアメリカ映画を見られなくなる』
太宰治は銭湯からの帰り道、驚きます。
灯火管制を受け、急に道が暗くなったのです。
戦争が始まったとはいえ、いくらなんでも暗すぎるのでは?と感じました。
作家の野口冨士男は『もうこれからはアメリカ映画を見られなくなる』と思い、映画館へ向かいました。
軍監マーチがけたたましく流れ、映画の音声をかき消さんばかりの中、彼はなんとか俳優の口から台詞を聞き取ろうと努力しました。
幸田露伴は、真珠湾攻撃で命を落とした若い男性たちのことを思い、涙をこぼしながら娘の文に語りかけました。
「考えてもごらん、まだ咲かないこれからの男の子なんだ。それが、暁の暗い空へ、冷や酒一杯で、この世とも別れて遠いところへ、そんな風に発っていったのだ、なんといっていいか、わからないじゃないか」
そして笠原和夫という名の中学生は、
『アメリカと戦争したって、勝てるわけがない』
と冷静に考えていました。
「アメリカに勝てるわけない」とは言えるわけない
映画好きの笠原和夫は、日頃からアメリカ映画を鑑賞し、日米の国力差を子供ながらに痛感していました。
『どうやったら勝てると思えるんだ……』
とはいえ中学生の笠原少年に、そんなことを大きな声で言えるわけがないとも認識していました。
笠原少年は、後に『仁義なき戦い』シリーズで知られる脚本家になります。
そして後年になってようやく「映画好きの中学生にもわかることを、なぜ偉い大人がわからなかったのか」と当時を振り返っています。
この笠原少年の経験は『裸の王様』を連想させます。
あのころ日本で
【この戦争は負けるんじゃないの?】
と、表明することは、
【王様は裸だ】
と言うよりはるかに難しいものでした。
王様が「バカには見えない服」を着ていたように、真珠湾攻撃に感動していた大人の目には、日本という国が何か特別なものでも纏っているように思えたのでしょう。
当時44才の作家・横光利一は、こう記しています。
「先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ。それはもっとも自然なことだ。自分がパリにいるとき、毎夜念じて伊勢の大廟を拝したことがついに顕れてしまったのである」
外遊時代に毎晩パリで、伊勢神宮に向かって祈っていた効果が出た、と。
こうした神がかり的なものが、笠原少年には見えない「特別なもの」であったのでしょう。
後世の人間が、真珠湾攻撃後に昂揚する人々のことを振り返ると『一体なぜか?』と疑問を感じるかもしれません。
そこには、当時の人には見えた「特別な何か」があり、かつ人々が実は追い詰められていたことを、考慮する必要があるのでしょう。
真珠湾攻撃のときアメリカ本土の米軍人たちはアメフトを観戦中
ルーズベルト大統領が事前に知っていたかどうか――いわゆる「陰謀論」はワタクシのライフワークでもありますが、ともかく多くのアメリカ人にとって真珠湾攻撃は寝耳に水でした。
確かにキナ臭い動きはあったものの、一応は平和だった日常生活が、この日を境にガラリと大転換してしまったのです。
日本側が決死の思いで敢行した真珠湾攻撃当日も、直前までアメリカ本土は呑気なものでした。
そのとき東海岸はお昼時 アメフトで大盛り上がり
真珠湾奇襲はハワイ時間の1941年12月7日午前7時55分に始まりました。
諸説ありますが、現在のアメリカ側では、この時間をもって開始したとなっています。
時差がある分、各地で様々な展開となります。
日本では8日午前3時10分。
では、ルーズベルト大統領など政権の要人がいたであろう東海岸は何時だったのか?
答えは7日の午後12時55分です。
要するにお昼時だったのですね。
もっとも、世間の注目はと言うと、恐らくその直前まで、あるイベントに向いていた。
ちょうどこの日、ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)で3試合が行われていたのです。
70年以上の歳月を経た今、当時の様子をサラリと報じているのはNFL殿堂のHP。
当日の組み合わせは、
◆ニューヨークのポロ・スタジアム
【ブルックリン・ドジャーズvsニューヨーク・ジャイアンツ】
◆ワシントンのグリフィス・スタジアム
【ワシントン・レッドスキンズvsフィラデルフィア・イーグルス】
◆シカゴのコミスキー・パーク
シカゴ・ベアーズvsシカゴ・カーディナルズ
上記の3試合でした。
スタジアムに緊急放送「将軍は急いでお帰り下さい」
そのタイミングでハワイへ現れたる南雲機動部隊。
当時、場内ではアナウンサーが実況中継を流すというサービスを行っていたそうですが、中断されたのは言うまでもありません。
「場内でご観戦中の軍人の皆様、お手数ですが直ちに所属部隊へご連絡下さい!」
そんなアナウンスが流れまくり、詰めかけた観客は「えっ、何? 何が起きたんだ?」と騒然となったと言います。
当日の様子を生々しく回想するのは、アメフトファンのヘイゼル・ヘイトさん。
1991年にアメリカのUSAトゥデー紙(→link)の取材に、こう答えています。
その日も、御本人は何時もの試合でそうするように、お気に入りの席に座って観戦する積もりでした。そこにけたたましく、かつ不吉なアナウンスが。
「A将軍にB将軍、どうか職場まで御連絡を……X提督にY提督、どうか職場まで御連絡を」
ちなみに、試合開始は午後2時からだったそうで、要するに球場を開門して観客を入れていた頃のアナウンスだったのですね。
軍人のファンにしたら、ちょっと寒い中を早めに行って、選手の練習している所に声をかけてコミュニケーションでも図ろう。
それでもって、場内の売り子にホットコーヒーとハンバーガーなんかを頼み、くつろぎながら、さぁ試合観戦……となるところです。
こういう世間の一大事の常に漏れず、まず第一報を知らされるのは将軍とか提督のエライさん。
下っ端の兵隊さんが知らされるのはずっと後というのはお約束です。
ただし、この時ばかりはいささか事情が異なります。
なんせ試合開始の数分前に海軍省が「真珠湾攻撃さる!」という知らせを正式に受けたのですから、大騒ぎの始まりとあいなりました。お偉い方も下っ端も四の五言ってる時間はありません。
政治家センセイたちに知らされたのも、試合開始の数分前だった模様。
ちなみに球場内の記者席電光掲示板には【奇襲の第一報】が表示されていたそうです。
落ちこぼれ記者の成れの果てとは言え、こうした展開がどんな感じだったかぐらいは、手に取るように分かります。
けたたましくなる固定電話の向こうから、本社の同僚等が絶叫。
「もうそっちはどうでもエエから、本社に戻って来て号外作り手伝ってくれや! 試合の取材? あぁもう、そんなもん通信社の記事使うがな、通信社の記事を! 分かるやろうが! こんなんなってもたら、載せるスペースがあったかって、せいぜい4〜5行じゃ」
おそらくそんな感じだったでしょう。
一般人だったヘイトさんは、他の善良な2万7000人の観客同様「えっ、一体全体どうしたのよ」と呆然。
「何しろさ、そこら中の席が全て空いてしまったのよ。凄い事が起きたってのだけは分かったけど、中身について知ったのは試合後だったわね」
そう語っております。
なお、試合の方はつつがなく?終わり、レッドスキンズが20対14でイーグルスを下しました。しかし……。
プレーオフを決めた選手たちは翌日の新聞に呆然
可哀想なのが出場選手達です。
以下「スポーツ今昔」(Sports Then and Now)というサイトの話を読むと、気の毒過ぎて泣けてきます。
チームによっては、この日がシーズンの決着を付ける重要な日。つまり、プレーオフがかかった決戦日だった所もあったのです。
本来なら「NFLプレーオフに✕✕(チーム名)進出」てな見出しで、それなりに報じられるはずだった……。
「それなりに」と断ったのには理由があります。
当時のNFLは、現在ほどの人気が無かったのです(有名なスーパーボウルは1967年から)。
テレビは殆ど普及してなかったので、中継と言えばラジオ。それ以外の人は、直に見る以外ありませんでした。
まぁ、だからこそ選手にしたら目立ちたいって思いがあった事でしょう。
さて、当時6チームの順位はどうだったのか。
まず、地区優勝しプレーオフ出場が決まっていたのはニューヨーク・ジャイアンツ。そして、もう1つの枠を賭けて戦っていたのが、シカゴ・ベアーズとシカゴ・カーディナルズでした。
書くのもアレなんですが、ヘイトさんが応援しようとしていたレッドスキンズ対イーグルス戦だけが「来季こそ!」以外のモチベーションが見当たらない試合。
であるならば、余計に、双方のファンの熱き声援こそが必要なはず。
それが試合会場ガラ〜ンとなってしまったのですから選手の心中いかばかりか。
普通に考えて最も気の毒そうなのがシカゴの試合でしょう。
双方にとって譲れない展開な所なのに、ファンだって「ここで気合い入れて応援せずして、ファンと名乗れるかい!」と必死のパッチ(©矢野燿大)で応援したかった筈。
あぁそれなのに……アナウンス入りまくり。
「軍人の皆様、配属先に御連絡を」との叫びが、シカゴのコミスキー・パークに鳴り響いたのです。
「エエ所やのにのぅ」と、渋々席を立ち、公衆電話で順番待ちする兵隊さん。
列の前の人が「何ですって!? はい、直ちに!」と叫ぶなり、受話器を置いて疾走した事は想像に余りあります。
ちなみに、試合は34対24でベアーズがカーディナルズを破っています。ベアーズファンの軍人さん、ご愁傷様です。
なお、ウィキペディアの英語版(→link)によると、チャンピオンシップ決定戦は12月21日に開催。
真珠湾奇襲の2週間後(現地時間)に行われました。
試合は37対9でベアーズの勝ち。
ファンにとっては快哉を叫ぶべき試合だったのでしょうけど、観客数は1万3341人とふるわず、当時のタイトル戦では最低だったそうです。
まぁ、平時と変わらずイベントを開催している事自体が驚異的かもしれませんが。
気の毒な選手筆頭タフィー・レイズ
そうした気の毒な選手の筆頭にいたのが、ニューヨーク・ジャイアンツのフルバックを務めていたタフィー・レイズでしょう。
先の殿堂のページによると、球団側は長年の活躍を称え、この7日を顕彰デーにしていたのです。
本名はアルフォンス・エミール・レーマン。1912年生まれでしたので、選手としては当時円熟期です。
1936年にジョージ・ワシントン大学の選手としてカレッジ・オールスターでMVPに輝いています。
休暇中だったジャイアンツのオーナーの息子さんが、たまたまワシントン大学とアラバマ大学戦の試合を見ていて「凄い選手がいるよ! ジャイアンツで是非とも取って」と懇願したという逸話があります。
アメリカン・ドリームを体現したようなエピソードですね。実際。同年のドラフト2巡目でジャイアンツに入団しています。
そして入団1年目から大活躍でした。
何しろ、この年だけで830ヤードを駆け抜け、ルーキーとして唯一、オール・リーグ・チームに選ばれていたほどです。
ディフェンスに優れていた選手だったそうで、ジャイアンツが毎年のように優勝争いが出来たのもレーマンの存在があればこそ。
実際、1938年には優勝しています(ちなみに、殿堂には彼の活躍ぶりを紹介したページがあるぐらい)。
で、この日は「タフィー・レーマンズ・デー」を設定していたわけです。
銀のトレーと時計と1500ドルの戦時国債を贈呈し、ファンともども盛り上がるはずだったのですが……。
ちなみに、こちらにはウィリアム・ドノバン大佐が観戦していました。
戦後、CIAを創設したアメリカ情報機関の父とも言える存在ですが、勿論、呼び出しを受けています(→link)。
思いっきりケチがついた格好ですね。
それが祟って1941年の優勝をシカゴ・ベアーズにさらわれていったのかもしれませんな。
タフィー自身は1943年に引退しますが、2年前の日をどう思いながらフィールドを後にしたのでしょうか?
フィールドから戦場に1000人が出征した
戦争の始まりは、選手達を押し流していきました。
先のスポーツ今昔(→link)によると、第二次世界大戦中に戦地に旅立っていった選手は約1000人いたそうです。サイトの方ではリスト化しています。
その全部を紹介する訳にはいきませんが、12月7日のポスト・シーズン進出を賭けたシカゴ戦の両チームの選手の「その後」を、サイトでは紹介しています。
奇しき縁というか、何人かは太平洋戦線に配属されているのですね。
カーディナルズのマーシャル・ゴールドバーグは翌年もチームで活躍しましたが、43年に1試合だけ出場後に応召。
南太平洋に、海軍軍人として任務に就いています(ウィキペディアの英語版によると大尉にまでなったそうです)。
選手生命を絶たれるような大怪我もせず、46年に復帰して優勝に貢献、48年に引退していました。
沖縄戦に参加したのが、ベアーズのヒュー・ガラニューです。
翌年の優勝に貢献後、海兵隊に入隊。少佐にまで昇進し、航空警戒部隊の一員として戦いました。45年にはベアーズに復帰し、優勝に貢献しています。
戦死してしまった人も、当然います。
ベアーズのヤング・ベッシーがその一人ですね。1940年に入団すると、ディフェンシブ・プレイヤーとして活躍し、41年には5回のタッチダウンを決めています。
翌42年に海軍に入隊、大尉に昇進しますが、1945年1月のフィリピンのリンガエン湾での戦いで命を落としました。
なお、戦死したのは両球団の選手だけではありません。
ジャイアンツのジャック・ラマスとグリーンベイ・パッカーズのハワード・スマイリー・ジョンソンは、それぞれ硫黄島での戦いで散華しています。
なお、硫黄島で亡くなったのは選手だけではありません。
カーディナルズでコーチをしていたジャック・チェブゲニーも、その人です。
中には、遂に花開く事無く亡くなっていった人もいます。
こちらはニール・キニックが典型と言えましょう。
1940年のドラフト2巡目でブルックリン・ドジャーズに指名されたものの、これを蹴ってアイオワ大学のロースクールに進み、真珠湾奇襲の3日前に海軍に応召。
戦闘機のパイロットとして訓練中の43年に事故死しています。
こうして命を落とした選手は23人にのぼり、coldhardfootballfacts.comというサイトで哀悼されています。
当たり前ですが、やはり戦争は絶対に避けなければなりませんね。
戦時中の軍と新聞がついた嘘がめちゃくちゃだ 書評『大本営発表』
ご年配の世代には「嘘八百」の代名詞にもなっている“大本営発表”という言葉。
同テーマを一冊にした関連書籍は数多く世に出まわっていますが、元新聞記者の目から見て「素晴らしい……」と嫉妬してしまうのが本書。
『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)』(→amazon)です。
著者の辻田真佐憲氏は慶應義塾大学出身の近現代史研究家として2011年にデビュー。
あの東日本大震災のあった年ですね。
福島の原発事故によって安全神話が崩壊し、それに伴ってこんな疑念が国民の間に湧き上がりました。
メディアは電力会社からの膨大な広告費を受け取って「原発は安全」というイメージ操作の片棒を担いできたのではないか。
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それって大本営発表じゃないの?
実際、本書によると、2011年には「大本営発表に関する文献や記事が急増した」そうで。
国立国会図書館のウェブサイトでも
「戦後最多のヒット数が確認できる。そのなかで、報道機関は、経済産業省、原子力安全・保安院、東京電力などとと並んで『大本営発表』の発信源だと批判されている」(同書263ページ)
との事です。
そう、全編を通じて奏でられているのは、嘘をこきまくった陸海軍に追従した報道機関のだらしなさ。
「今でも通じるんじゃないの?」という危機意識は世間に共有されて欲しいと思います。
「大本営と記者会とは、とけあつて一体となり」
私が特に衝撃を受けたのは、当時の新聞関係者などの間で、大本営発表が
「朝刊」
「夕刊」
などと呼ばれていた箇所でした。
海軍報道部の富永謙吾少佐が、戦後の書籍で回想したエピソードを典拠としています。
新聞記者「今日は夕刊が出ますか」
報道部員「出してもいいが、締切に間に合いそうにないからやめよう。その代わり明日の朝刊は三本だよ」(64ページ)
次のページには読売新聞の藤本弘道(陸軍担当)が戦時中に出版した「戦ふ大本営陸軍部」の、こんな箇所が引用されています。
「報道を生命として働く大本営陸軍報道部と陸軍省記者会とは、とけあつて一体となり、主柱の一翼となつて、報道戦線を身をもつてかけまはつて努力しているのです」
こういうのって、ズブズブって言いますわな。癒着と言い換えてもええでしょう。
新聞社は、こうした黒歴史を封じたばかりではなく、戦後は「軍部の弾圧で仕方なく筆を曲げた」と弁解しているんですから、いやはや日本の新聞業界ってすごいですね(棒読み)。
ちなみに、当時の速報メディアに美味しいところを全部持っていかれてはかなわん、面子丸つぶれやがな、と新聞側から軍部に働きかけて止めさせていた事もあったそうです。
軍部と新聞は主従関係にあったのではなく、ムラ社会の関係にあったのですね。
読者である国民は、そんなところから情報を買っていた、と。
嘘つくだけでなく、だんまりも決め込んで
ワタクシメが再び衝撃を受けたのは、1942年6月のミッドウェーの敗戦以後の迷走ぶり。
この負けを機に、発表回数がガクンと落ちたのです。
1941年12月(つまり真珠湾奇襲のあった月)は月間90回も発表していたのが、1942年には
6月9回
7月7回
8月2回
と目に見えて減っていきます。
ヤバくなると黙り込む人を見かけますが、組織でも同様ですね。
さらには同年10月のサボ島沖海戦(日本側が重巡洋艦1隻 、駆逐艦1隻沈没 重巡洋艦1隻大破 重巡洋艦1隻小破 他に退却支援中に駆逐艦2隻沈没=以上、ウィキペディア日本語版を参照)は、そもそも報じられなかったと、同書では指摘しています。
嘘をつくだけでなく、だんまりを決め込むなんて酷い……。
翌年のガダルカナル島での敗退による撤退を「転進」と言い換えます。
そして「玉砕」という言葉…。
こういう言い換えが横行・跋扈していく経緯が本書には詳しく書かれており、読んでのお楽しみ(というより悲しみですね)として下さい。
巻末の、大本営発表の戦果と実際の戦果の比較表は、特に出色です。
文字が小さい表を見やったワタクシメは、気がついたら目から涙が出ておりました。
老眼のせいだけでないのが悲しい。
広島と長崎の被爆者3万人を救ったスイス人医師マルセル・ジュノー
昭和20年(1945年)8月6日は、広島に原爆が投下された日。
その3日後、8月9日の長崎と同じく、誰しも粛然とした気持ちになる日でありましょう。
そうした中でスイス赤十字が、当時の広島と長崎の被爆者の治療に奔走したスイス人を顕彰し、注目を集めています。
swissinfo.chの記事(→link)を紹介してみましょう。
マルセル・ジュノーという人物が、その人。
原爆が落とされた広島を最初に訪れ、治療に当たった外国人医師でした。
投下直後に初めて現地入りした外国人医師
マルセル・ジュノーは1904年、スイスのヌーシャテルに生まれ。
外科医として修行を積んだ後、1935年に国際赤十字委員会(ICRC)に参加しました。
折しも、世界的に戦争の嵐が吹き荒れそうになっていた時代です。
国際赤十字としても、対応を巡り模索するしかありません。
そして同年1935年に、早くも最初の出番が巡って来ます。
第二次エチオピア戦争で、戦地に足を踏み入れたのです。
以後、1936年からはスペイン市民戦争でも治療に赴き、やがて第二次世界大戦に直面。
欧州と日本の戦場の両方を直に見た数少ないヨーロッパ人でもありました。
広島への現地入りは1945年9月13日ですので、投下から1ヶ月少々だった頃です。
通訳を務めた丸山幹正氏(後に『ドクター・ジュノーの戦い(→amazon)』という伝記を出版)によると、広島で精力的に治療活動を行いました。
当時、広島では大勢の被爆者が治療を必要としていて、「治療で2万人から3万人の命が救われた」(丸山氏)とのことです。
任務外の活動で人命救助をマッカーサーに直談判
興味深いのは、国際赤十字委員会の任務として、こうした被爆者の治療は想定されていなかった事でしょう。
元々来日したのも、日本国内における連合軍捕虜の処遇実態を調査するのが目的だったからです。
ちなみに、東京着が1945年8月9日でした。
事態を知ったマルセル・ジュノーは同僚と共に、降伏後に進駐したGHQへ直談判。
医療とロジスティックスが必要だとダグラス・マッカーサーを説き伏せます。
広島の凄まじい惨状を、本国に電報でも知らせました。
マッカーサーは、ジュノーに15トンの医療物資の供給します。
空輸しながら治療活動を支援する事も約束。
日本人の放射線医師や、アメリカ人の医師を連れて広島入りするなど、組織のオーガナイジングをする力にも長けていた人でした。
息子のベノイト・ジュノーさんは、後にこう回想しています。
「父は5日間、広島にいました。本当に混沌としていた中で、被爆者の治療を直に行ったのです」
日本赤十字社のKiyoshi Eouchi(すいません、調べて見たのですが日本語での綴りが分からなかったので、このまま載せます)氏も継のように絶賛しています。
「こうした膨大な量の医療物資が、生き残った人達にどれだけの希望となったか……。今となっては想像がつかないほどです」
彼の行動はそれだけにとどまりませんでした。
1946年に帰国後、広島での惨状を証言しようと、執筆に取りかかったのです。
帰国後、原爆の恐ろしさを本に綴る
執筆作業を終えると、翌年に書籍を出版。
ベノイトさんによると、広島の原爆がもたらした影響について、一冊の本として最初に触れたのはマルセルだったろうとの事です。
「当時のアメリカは、この問題を検閲していました。アメリカで最初に報道したのはジョン・ハーシーというジャーナリストでしたが、1946年9月でした」(ベノイトさん)
中立国のスイスだからこそ出版可能だったのでしょう。
国際赤十字委員会では、マルセル・ジュノーの人道援助のパイオニアとして戦地で活躍した功績は記憶に留められて然るべきだとしています。
「極端なまでに仕事に打ち込む人でした。国際赤十字社には、一時的に参加するだけだったのが、一生の仕事となったからです」
そう話すのは、国際赤十字社で国際法とコミュニケーションの担当責任者であるフランシス・バグニオン氏。
「彼の行動が、今日の医師団派遣のモデルになったのです。我々の医師団には、あらゆる意味でジュノーの精神が宿っているのです」
広島平和記念公園に顕彰碑
1961年6月16日、心臓発作で世を去りますが、こうした活躍を称え、1979年には広島平和記念公園に顕彰碑が建てられたほどです。
また、1990年から毎年6月に追悼式展が行われています。
2015年の70周年のときには、この顕彰碑を基にした記念碑のお披露目式が行われたそうです。
なお、ウィキペディア日本語版(→link)によると、在日朝鮮人の帰還事業に関連し、赤十字国際委員会から日本への使節として、8月23日に来日して、岸信介首相、藤山愛一郎外相らと会見。
日本政府の帰還調整委員会にオブザーバーとして出席するなど、約1ヶ月間日本での業務にあたったとあります。
碑はあっても、多くの日本人にはおそらく無名であろうマルセル・ジュノー。
機会があれば、顕彰碑に献花しても良いかもしれません。
12月8日は太平洋戦争勃発の日、我が町にある針尾送信所より暗号が発令された3本の塔、本年9月には百年振りに基礎部分が掘り起こされ一般公開、維持管理も行き届いており何時でも見学可能、二度と起こさない戦争を願っております、写真に一部は借り物ですがそれ以外は現地実写です
昭和20年5月知覧にて特攻機に桜の小枝を振る知覧なでしこ隊。