【世界平和】人類はみんな家族!!Apex product⑪

SDGsの目標16『平和と公正を全ての人に』

平和都市宣言

平和な日々を過ごすことは、全人類の共通の願いです。我が国の経済発展とともに本市は成長し、今日、全国でも有数の大都市に発展しました。こうした繁栄は、平和がもたらしたものであるといっても過言ではありません。
1989年(平成元年)2月28日、千葉市は世界の恒久平和を願い、「平和都市」を宣言しました。

平和都市宣言

平和都市宣言

私たちの郷土千葉市は、「ゆとりと活力ある都市づくり」を基本目標に、心のふれあう豊かで美しい地域社会の創造と健康で快適なまちづくりに懸命な努力を続けているところである。

郷土千葉市の発展と市民の幸せは、日本の安全と世界の恒久平和なくしては望み得ないものである。

よって、私たちは、核兵器などによる戦争への脅威をなくし、市民共通の願いである世界の恒久平和を求め、ここに「平和都市」を宣言する。

1989年(平成元年)2月28日

千葉市

「ちばSDGsパートナー」登録企業 Apex product

目標16のポイント

  • みんなが安心して参加できる平和な社会をつくる
  • 公正なほうりつもとづいたらしをみんなができる
  • いき・国・世界といったあらゆるレベルで公正な司法せいを利用できる

平和な社会づくりのため、世界中から、虐待、搾取、人身売買など、子どもに対する暴力を含む、あらゆる暴力と暴力による死を大幅になくすこと、政府や国の制度を公正にし、すべての人が平等に司法を利用することを目指す目標です。

違法な資金の取引や武器の取引、汚職を大幅に減らすこと、子どもや若者を含む人々の意見を意思決定に反映し、人々に対して情報を公開して説明ができる政府や制度にすることもこの目標に含まれます。また、グローバルなレベルでの決定に際し、途上国の参加を拡大、強化していくことも目指します。

SDGsの17番目の目標は、これまでの16の目標を達成するために、「具体的な実施手段を強化し、持続可能な開発に向けて世界の国々が協力すること」に関連するとても重要な目標です。

すべての国が目標達成に向けて国の予算を確保し、また先進国は途上国に必要な資金や技術を支援し、国同士の格差を生まない貿易ルールを実施することが掲げられています。

さまざまなステークホルダー(関係者)が連携することや、目標達成に向けてどのくらい進捗しているかを確認するため、データや統計をきちんと集めることもこの目標に含まれています。

争いは、やめましょう。世界の平和を願います!!

何故、今だに世界の至る所で揉め事や争いごとが絶えないのでしょう。政治や宗教での自国間の争い、差別、派閥、どうして起こるのですか。アジアの仲間同士どうして普通に暮らせないのですか。誰が、考えても平和な社会が良いに決まっています。小さな子供でも理解出来る事を分別のある大人や政治家が、何故、争うのでしょう。人は何故争わなければいけないのでしょう。欲を捨て本来の裸で生まれた人間同士うまくやっていけないのでしょうか。それぞれ、己が正義と思い事を成すでしょうが、少しだけ立ち止まり、力を抜いて音楽を聴いてみてはいかがですか。きっと心に響く1曲があるはずです。そして貴方の幼い頃。そうです。純粋だったあの頃。思い出して下さい。人前に出るのもおどおどして、母親の影に隠れていた優しい子。正義の旗の元、どんな理由があっても人殺しです。無差別に殺しあう戦争が、どんなに愚かな事でしょう。本来のあなたに戻って下さい。きっと戻れます。先人がどれだけ血を流し我々に生きて伝えたかった事でしょう。だからだから、お願い致します。下記に、あげる資料・画像を見て一人でも多くの人に伝えて下さい。いかに、平和が大切で、人の命が尊いのか。本気で考えて下さい。弊社は、真剣に取り組みます。誰に非難されても、私達は訴え続けます。一生を掛けて取り組む問題だからです。是非ご賛同頂き、少しでも悲しい人を作らないようにしましょう。

 

平和ほど、尊いものはない。
平和ほど、幸福なものはない。
平和こそ、人類の進むべき、
根本の第一歩であらねばならない。

 

-  青空と向日葵の会 Apex product 社員一同 -

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沖縄の日本復帰から51年。返還後も長く続いた"沖縄裏社会"「いくさ世(ゆ)」の歴史

社会

2023年05月17日

文/安藤海南男

1972年5月15日に行われた沖縄復帰記念式典(沖縄公文書館ホームページより)1972年5月15日に行われた沖縄復帰記念式典(沖縄公文書館ホームページより)

5月15日、沖縄が日本に復帰してから51年目を迎えた。敗戦の代償として分割され、アメリカに統治されていた沖縄が返還されたこの日は、多くの日本人に「戦後の終わり」という一つの節目として印象づけられた。

ところが当時、沖縄はまだ動乱の中にあった。終戦に端を発した沖縄裏社会の抗争が続いていたからだ。日本復帰を挟んで沖縄が経験したもうひとつの「いくさ世(ゆ)」について、ジャーナリストの安藤海南男氏が解説する。

*  *  *

■米軍統治下で台頭した沖縄ヤクザ

「沖縄ヤクザの源流はコザにある」。そう筆者に語ったのは、現役時代に長年、暴力団捜査に携わった沖縄県警の元刑事だ。

戦後、米軍の統治下に入った沖縄では、各地に「特飲街」と呼ばれる歓楽街が勃興した。朝鮮戦争、ベトナム戦争と血なまぐさい戦場へと赴く兵士を相手に、酒と女を提供する店が米軍の基地周辺に次々と姿を現したのである。

なかでも極東最大の米軍基地「嘉手納基地」を抱える「コザ」には、1950年代から始まった米軍認可の「Aサイン」の看板を掲げるバーやキャバレーが林立し、死の恐怖と不安から逃れようとする米兵と、明日をも知れぬ彼らがばらまくドルを狙う女たちの欲望がぶつかり合い、異様な熱気が生まれていた。

ここでいう「コザ」とは本島中部にかつて存在したコザ市のことを指す。いまでは沖縄市と呼称を変えたこの街に戦後、「モトシンカカランヌー」と「アシバ-」が集まった。

嘉手納基地へと続く沖縄市のゲート通り。かつては米兵相手の飲食店が軒を連ねたコザの中心部だ。市民の米兵に対する不満が爆発したコザ暴動の舞台ともなった(安藤海南男氏提供)嘉手納基地へと続く沖縄市のゲート通り。かつては米兵相手の飲食店が軒を連ねたコザの中心部だ。市民の米兵に対する不満が爆発したコザ暴動の舞台ともなった(安藤海南男氏提供)
沖縄では、生きるために身を売る女性たちを方言で「元手がかからない」の意を示す「モトシンカカランヌー」と呼んだ。一方、そうした女性たちの影には、同じく方言で「アシバ-」と呼ばれる男たちもいた。「不良」とか「遊び人」というほどの意味だが、沖縄では、より広義の「アウトロー」の意味をも包含する。腕力と知力、胆力でのし上がった「沖縄ヤクザ」の源流もまた、「コザ」にあった。

「沖縄ヤクザは、江戸期から続く神社の境内や参道に縄張りを持つ『的屋』や『博徒』、沖仲仕などの港湾労働者の集団などをルーツに持つ内地(日本本土)の組織とは成り立ちがまったく異なる。組織化されていく背景には、戦後長らく、米軍の支配下にあったという沖縄の特異な歴史が深く関わっている」


そう語るのは、前出の県警OBである。戦後の沖縄では、困窮した地元住民たちによる米軍の物資の収奪が相次ぎ、そうした行為は、「戦果アギヤー」と呼ばれた。

米兵をだましたり、時にはグルになって基地内にある潤沢な物資を奪う。なかには警備兵に撃たれて命を落とす者もいたし、とらわれの身になる者もいた。命がけで支配者たる米軍に立ち向かう彼らは、虐げられた島の住民たちにとっては一種の英雄でもあった。

その中からやがて、米軍を向こうに回す荒くれ者を糾合する者が現れ、次第に組織化されていった。沖縄の日本復帰後も続いた沖縄ヤクザの抗争の歴史を詳述したルポルタージュ「沖縄ヤクザ戦争」(大島幸夫著・1978年・晩聲社刊)にはこうある。

《沖縄ヤクザは、この島の戦後史的特徴をおびた社会的産物なのである。その生成の原点は、占領軍の金網の中だ》

■原点は戦災者の収容施設

同書でも言及しているが、沖縄ヤクザの原点は、沖縄戦で行き場を失った住民たちが身を寄せた「カンパン」と呼ばれた雑居収容施設だった。「カンパン」の中でコミュニティーがつくられ、カンパンごとに生まれた地縁が合従連衡して組織化されていったのがはじまりだとされる。

群雄割拠の「戦果アギヤー」の世界で抜きんでた実力を持ったのが、「ターリー」と呼ばれた喜舍場朝信である。喜舍場は1947年ごろには、コザを根城に「無免許ドライバー」や「沖縄相撲のツワモノ」などの荒くれ者らを集め、《「十字路十人シンカ」(10人衆)》と称する集団をつくったという。

「『シンカ』というのは、『臣下』から派生した沖縄方言で、『仲間』などの意味がある。ただ、戦後の沖縄では、ヤクザ者の集団という意味合いが強くなり、いまでもそうしたニュアンスで使われることが多い」(前出の警察OB)

前出の「沖縄ヤクザ戦争」などによると、コザ一帯を縄張りにした彼らはやがて、「コロコロ」と俗称された青空球技賭博やバラック建てのビンゴ遊戯場を仕切るようになり、1952年ごろには、構成員約300人の「コザ派」を名乗るようになったとされる。

那覇派の那覇派の
同じころ、那覇一帯を取り仕切っていたのが、「スター」こと又吉世喜。又吉率いる集団は「コザ派」に対して「那覇派」と呼ばれるようになり、1961年には又吉率いる那覇派とコザ派との間で、那覇市内のビンゴ遊戯場の利権をめぐる争いから抗争が勃発。これがその後の「いくさ世(ゆ)」とも称された沖縄ヤクザの抗争の歴史の幕開けとなった。

喜舍場を中心とする「コザ派」の中で特に力があったのは、「ミンタミー」(沖縄方言で「目の玉」の意)の俗称で呼ばれた新城喜史だ。

「コザ派には、新城ら県北部の『山原(ヤンバル)』出身者が多かった。そのためもあってか、コザ派は、旧十人シンカのグループが中心となった主流派の『山原派』と、そこから分派した『泡瀬派』に分かれた。1964年から67年ごろにかけて山原、泡瀬、那覇、普天間の四組織がしのぎを削り、抗争を繰り返すようになった」(同)

その後、泡瀬派は山原派との抗争で解散に追い込まれ、普天間派も最高幹部が山原派の組員の銃弾に倒れて勢いを失った。

■日本復帰直前の一時的和解の理由

沖縄の日本復帰を目前に控えた1970年、残された山原派と那覇派がついに合流し、「沖縄連合旭琉会」を結成。沖縄ヤクザがようやくひとつにまとまったことで、つかの間の平穏が訪れた。

「反目し合っていた山原派と那覇派が合流した背景には、当時勢力を急拡大していた三代目山口組が沖縄進出に向けた動きを見せていたことへの対抗という意味合いもあった。

しかし、山原派、那覇派の大幹部だった新城ミンタミと又吉スターはそれぞれ理事長に就任したものの、組織内での待遇の不満から山原派の有力組織だった上原組が離脱。この一件と沖縄進出を狙う三代目山口組の介入が火種となり、第4次、第5次抗争へと発展していくことになる」(前出の警察OB)

最初の抗争が起きた1961年から、第5次抗争が終結する83年まで、実に約22年。この間に沖縄ヤクザの「ゴッドファーザー」的な存在だった「ターリー」こと喜舍場朝信は病死。山原派の「ミンタミー」こと新城喜史、那覇派の「スター」こと又吉世喜というレジェンドふたりも凶弾に倒れている。

そうした数々の犠牲を払いながらも、「山口組」という巨大な本土勢力の侵攻に対抗するために一度はまとまった沖縄ヤクザたち。1972年の日本復帰の前後、多くの本土資本が沖縄を侵食したのとは対照的に、自らが拠って立つ居場所を守ったわけである。

しかし、90年に入ると再び組織は「旭琉会」と「沖縄旭琉会」の二つの勢力に分裂。より苛烈な抗争を繰り広げた。

「分裂直後の1990年から92年までの第6次抗争では、抗争の余波でアルバイトの高校生、警察官ふたりが命を落とす事態にまで発展した。警察官が射殺された事件では、実行犯の組員が逃亡し、『警察庁指定重要指名手配犯』として30年以上が過ぎた今もなお全国の警察がその行方を追っている。

県外の組織に匿(かくま)われながら逃亡を続けているとみられていたが、2000年には京都府内の病院を受診し、がんと診断されていたことが判明している。こうした状況から逃亡犯の組員はすでに死亡しているものとみられている。」(同)

ふたつの組織が並び立ち、にらみ合う時代はその後、20年余りも続いた。その間、92年に暴力団対策法が施行され、裏社会を取り巻く環境は激変した。「反社会勢力」とみなされるようになった暴力団の排除の波はさらに進展し、2011年3月の「暴力団排除条例」の全国一斉施行へとつながっていく。

「反社排除」の波が、緩流から奔流へと勢いを増したこの年、その流れに抗うようにふたつの組織は再び合流し、新たに「旭琉會」を立ち上げることとなる。

「2019年には組織再統合の立役者だった旭琉會の富永清会長が死亡したが、現在に至るまで正式な後継者は決まっていない。このままトップ不在の組織運営が続くのか。それとも体制の大幅な刷新があるのか。まだ先行きは不透明な状況が続いている」(前出の警察OB)

県民の4人に1人が命を落とす沖縄戦の悲劇が終わってから今年で78年、米軍の圧政を脱し「主権」を取り戻してから51年が経つ。島に横たわる長い苦難の歴史には、もうひとつの「いくさ世」の記憶も刻み込まれている。

●安藤海南男(あんどう・かなお)  
ジャーナリスト。大手新聞社に入社後、地方支局での勤務を経て、在京社会部記者として活躍。退社後は警察組織の裏側を精力的に取材している。沖縄復帰前後の「コザ」の売春地帯で生きた5人の女性の生き様を描いた電子書籍「パラダイス」(ミリオン出版/大洋図書)も発売中

ウクライナ侵攻よりカネになる? ワグネルが暗躍? ロシアがもくろむ「スーダン内戦長期化」と「血塗られた金」

政治・国際

2023年05月17日

取材・文/川喜田 研 写真/共同通信社 時事通信社

スーダン国軍と戦うRSFのメンバー。兵力は10万人に上るとされ、リビア内戦やイエメン内戦にも参戦したスーダン国軍と戦うRSFのメンバー。兵力は10万人に上るとされ、リビア内戦やイエメン内戦にも参戦した

スーダン国軍と同国の準軍事組織RSFの衝突は4月15日の勃発以来、停戦合意がたびたび破られ、収束の見通しが立たない。この戦闘にはロシアの民間軍事会社ワグネルが深く関与しているという。スーダンのみならず、アフリカ諸国で影響力を強めるロシアの狙いは何か?

■「大統領防衛隊」が大統領を見限る

4月15日に首都ハルツームで突如として国軍と準軍事組織RSFの戦闘が始まり、事実上の内戦状態に突入した、北東アフリカの国、スーダン。

激しい戦闘が続く中、各国政府や軍の支援でスーダン在住の外国人が国外に脱出。日本政府も自衛隊機を派遣し、厳しい状況下で在留邦人の退避に成功したニュースは国内でも大きな注目を集めた。

スーダンでは2019年4月に30年間続いていたバシール大統領の独裁政権が崩壊。将来の民政移管に向けて軍民の共同統治が始まったが、21年10月には再び軍によるクーデターが勃発した。

この首謀者で国軍トップのアブドゥルファッターフ・ブルハン将軍が暫定政権の議長に就任した。準軍事組織のRSFを率いるモハメド・ハムダン・ダガロ司令官が副議長を務める形で、軍事政権が政府の実権を握ってきた。


その後、昨年から国連などの支援で新たな民主化のプロセスが動き出していた中で起きた今回の武力衝突は、民政移管後の軍とRSFの統合を巡り、この機会にRSFを完全に吸収してしまいたいブルハン将軍派の国軍と、民政移管後も独立した組織として主導権を握りたいダガロ司令官派のRSFの対立が表面化したためだといわれている。

そして、このRSFと深い結びつきを持ち、スーダン内戦の陰でひそかに暗躍しているとみられるのが、ロシアによるウクライナ侵攻でも大きな存在感を放っている民間軍事会社の「ワグネル」だ。

そのワグネルとスーダンの関係について触れる前に、まずはRSFについて簡単に説明しておこう。

RSFは正規軍とは別に組織された国家情報機関直属の準軍事組織「即応支援部隊」の略称。その母体は2003年から現在も続き、世界最悪の人道危機といわれる「ダルフール紛争」で、非アラブ系住民の虐殺など数々の残虐行為を行なったといわれているアラブ系の民兵組織「ジャンジャウィード」だ。

「RSFは当初、バシール大統領の『親衛隊』のような役割を与えられていました」と語るのは、日本在住のスーダン人で、東洋大学国際共生社会研究センター客員研究員のモハメド・オマル・アブディン氏だ。

「反政府勢力の反乱をきっかけに始まったダルフール紛争で非アラブ系住民への迫害を続けていたバシール大統領は、『正規軍よりも小回りの利く機動性の高い部隊』をつくろうと、ジャンジャウィードを再編して、RSFを設立しました。

そのRSFがダルフール紛争で成果を上げる中、急速に存在感を増したのが、通称〝ヘメッティ〟と呼ばれるRSFのモハメド・ハムダン・ダガロ司令官です。

2月9日、ハルツームを訪れたロシアのラブロフ外相(左)と会談する、スーダン「即応支援部隊(RSF)」のトップ、ダガロ司令官2月9日、ハルツームを訪れたロシアのラブロフ外相(左)と会談する、スーダン「即応支援部隊(RSF)」のトップ、ダガロ司令官

自らも1989年のクーデターで実権を握ったバシール大統領は、今度は国軍が自分に対してクーデターを起こすことを恐れて、国軍を抑える『大統領防衛隊』的な組織としてRSFに白羽の矢を立てました。

そして、ダルフール地方の金の採掘権をRSFに与えるなど、手厚い支援を与えたことからRSFは急激に規模を拡大。やがてサウジアラビアやUAE(アラブ首長国連邦)が支援するイエメンやリビアの紛争にもRSFは傭兵を派遣するようになり、これらの国からも支援を受けながら関係を深めていきます。現在は主にUAEから支援を受けています。

こうした傭兵ビジネスや金の採掘利権を通じて巨万の富を手にしたヘメッティのRSFは、その後も順調に拡大を続けていきました。19年の民衆蜂起の際には、ダルフール紛争における『人道に対する罪』で国際刑事裁判所から逮捕状が出ていたバシールを見限って、国軍と拮抗するほどの勢力を持つようになる。

その過程で着々とRSFとの結びつきを強めてきたのが、ロシアの民間軍事会社『ワグネル』なのです」

■武器供与の見返りに金の採掘利権

RSFとワグネルをつなぐひとつ目の鍵は「金(きん)」だ。

スーダンはナイル川沿いに豊かな穀倉地帯を持ち、鉱物資源も豊富。とりわけ金の産出量は世界10位の年間90t(2020年)を誇るが、前述したとおり、RSFが金の採掘利権を握っている。

RSFはワグネルと契約して武器の供与や軍事訓練などを受けているといわれるが、その見返りが金の採掘に関わる利権なのだという。

米CNNの報道によると、ワグネルはRSFに対する軍事訓練のほかに、地対空ミサイルなども供与する一方で、スーダンで採掘される金の精製権をワグネルの関連会社が独占している。

スーダンからシリア国内にあるワグネルの基地を経由してロシアへと持ち出された金はすでに数十億ドルに上り、ウクライナ侵攻の資金源になっているとみる向きもある。

ちなみに、戦闘機なども含めてスーダン軍の武器のほとんどがロシア製で、ロシアは国軍にもRSFにも兵器を供給している。

いわば、同じリーグ内にふたつの強豪チームを持つオーナー企業のようなもので、ロシアにとっては、内戦が長期化してくれたほうが好都合なのかもしれない。

「ただし、ワグネルは利益を追求する民間の軍事会社なので、カネになるなら国軍とRSFのどちらが勝とうが構わない。RSFのほうがカネ払いがよければ、当然、そちらにつくのではないでしょうか」とアブディン氏。

確かに、ウクライナで多大な損害を被ったワグネルにとっては、オマケに金の採掘利権もついてくるこちらのビジネスのほうがはるかにうまみがあるといえるかもしれない。

■フランスの〝裏庭〟を荒らすロシア

RSFとワグネルをつなぐふたつ目の鍵は、ウクライナ侵攻で国際社会から孤立する中、アフリカへの政治的影響力を高めたいロシアの思惑だ。
 
22年3月、国連総会でウクライナからの軍の即時撤退をロシアに求める決議案の採択が行なわれた際、35の国が棄権したが、その半数がスーダンを含めたアフリカの国々だった。

「ロシアは軍事ビジネスを通してアフリカでの影響力を強めようとしています」とアブディン氏は指摘する。

「アフリカのサハラ砂漠以南、スーダン、チャド、マリ、ニジェールなどの国々は、もともとフランスの支配地域でしたが、ロシアは今、そこに挑戦していて、スーダンはその最前線なのです。

すでに中央アフリカはロシアの影響下にあり、昨年クーデターが発生したブルキナファソは新政権発足後すぐにフランスとの軍事支援協定を破棄。その隣のマリでも反フランスの政権が成立していますが、背後にはいずれもロシアの存在があります。

ウクライナ戦争には『EU対ロシア』という側面がありますが、ロシアがアフリカというフランスの〝裏庭〟を荒らすことで、ドイツと並んでEUの盟主であるフランスの圧力を和らげる外交カードになるからです。

歴史を振り返れば、フランスもアフリカの資源を散々収奪してきたので、そうしたフランスへの反感を利用することで、ロシアがこれらの国々に入り込みやすいという面もあったと思います。

ちなみに、RSFの動員の母体はスーダンだけでなく、周辺のチャド、ニジェールなどにも暮らす越境民族ですから、RSFはロシアがアフリカでこれらの地域を落とすための『手先』としても、使いやすいのではないでしょうか」

こうしたロシアの政治的野心を背景にアフリカ諸国で軍事ビジネスを展開するワグネルと、そのワグネルと金の採掘利権で結びつき、傭兵部隊としてスーダン以外の内戦や紛争にも関与するRSF。

どちらも自国の「正規軍」と張り合うほどの兵器や規模を持ちながら、カネのため、利益のために「戦争ビジネス」を展開する組織だというのは、ある意味、現代的だといえるかもしれない。

アブディン氏はそんなRSFを企業になぞらえて「RSFホールディングス」と呼んでいる。

「RSFの事業の柱は3つあり、ひとつは前述した傭兵部門。RSFはイエメンの紛争に3万人を派遣したほか、リビアやチャド、中央アフリカの紛争にも関与しています。

ふたつ目は金の採掘事業。こちらもスーダンで味をしめて中央アフリカ、チャド、ニジェールなどでもやっている。

そして3つ目が国境警備事業。これに関しては、実はEUもRSFを活用してきた過去があります。

2011年以降、『アラブの春』でシリアやリビアが崩壊し、ヨーロッパに何百万人という難民の波が押し寄せた。いろいろなルートがありましたが、そのひとつがスーダンルートでした。スーダンは難民をヨーロッパに送り出してしまう中継国だったんです。

この難民の流れをなんとか食い止めたいEUは、難民の通過ルート上にある国の国境警備の強化を支援する『ハルツーム・プロセス』という枠組みを作ったのです。

その費用として2億ユーロを受け取ったバシールは国境警備にRSFを任命。RSFはここでも難民に対して残忍なことをやったので、それを機に難民の流れがピタッと止まったといわれています。

もちろんEUが直接、国境警備のためにRSFを雇ったわけではありませんが、結果的にEUの拠出した巨額のカネが悪名高いRSFに流れていたというのは事実なのです」

■日本経済にも無関係ではない

ちなみに、民間軍事会社や準軍事組織の広がりはロシアやスーダンに限ったことではない。アメリカにも「アカデミ社」(旧ブラックウォーター社)など多くの民間軍事会社があり、イラク戦争では同社の兵士が民間人の虐殺事件を起こしている。

自国の政治的利益のために貧しい国々を利用しようとする大国の存在と、その手足となってカネのために戦う、こうした「戦争の犬たち」がいる限り、内戦や紛争は決して終わらないだろう。そして、その犠牲となるのは常に、罪もない一般の市民たちだ。

アフリカは人口増加が著しく、2050年には世界人口の4分の1がアフリカ人になるといわれている。経済成長の可能性があることから、欧米や日本、ロシア、中国などが熱い視線を寄せている。

だが、ウクライナ侵攻や台湾問題を巡って、米欧日などの西側諸国とロシア・中国との対立で世界の分断が深まる中、豊富な天然資源を持つスーダンがこうして内戦に明け暮れている現実に、なんともやりきれない気持ちになる。

しかし、邦人が無事に退避を終えた日本ではスーダン内戦の注目度は決して高くない。そんな状況をスーダン出身のアブディン氏はどのように感じているだろうか?

「少し悲しいけれど、遠い国で起きていることを『自分のこと』のように考えるのは誰にとっても難しいので、それは仕方ないと思います。

ただし、ソマリア情勢の悪化で海賊問題への対応を迫られたように、この先スーダン情勢が不安定になり、その結果、紅海沿岸の安全が脅かされれば、日本からヨーロッパへの輸出品を載せた船や、サウジアラビアなどの湾岸諸国から日本に原油を運ぶタンカーなど、紅海からスエズ運河を通る海運に影響が出て、日本のエネルギー安全保障や経済全体が大打撃を受けることは避けられない。

また、ロシアはスーダンに対し紅海の要衝である海軍基地を提供するよう求めており、これに国軍トップのブルハンが応じる可能性もある。

そう考えると、少なくとも遠いスーダンで起きていることは日本にとっても、対岸の火事ではないということは理解したほうがいいかもしれません」

ロシアのウクライナ侵攻の影響はスーダンの内戦にも暗い影を落としている。「プーチンの戦争」が引き起こした分断と、世界を股にかける「戦争ビジネス」のプロたちがアフリカの国々をも引き裂こうとしているのだ。

モハメド・オマル・アブディン氏。1978年生まれ、スーダン・ハルツーム出身。生まれたときから弱視で、12歳で視力を失う。98年に来日し、福井県立盲学校で鍼灸を学んだ後、東京外国語大学、同大学院を経て、2014年に博士号取得。現在、民間企業に勤務、東洋大学国際共生社会研究センター客員研究員

モハメド・オマル・アブディン氏。1978年生まれ、スーダン・ハルツーム出身。生まれたときから弱視で、12歳で視力を失う。98年に来日し、福井県立盲学校で鍼灸を学んだ後、東京外国語大学、同大学院を経て、2014年に博士号取得。現在、民間企業に勤務、東洋大学国際共生社会研究センター客員研究員
【静ちゃんへの手紙】 ~神風特攻隊員の兄と幼き妹~
https://yuru2club.com/wp/?p=4416
大阪府出身で、飛行学校卒の大石清伍長は、
昭和20年3月13日、14日の大阪大空襲で父を失い、
重病だった母も亡くしました。
肉親は、大石伍長の妹である静江さん、当時小学生。
兄が戦場に行き、妹は伯父の元に引き取られていました。
この時、兄17~18歳(推定年齢)、妹11歳です。
妹思いの兄は、給与のほとんどを妹に送金しており、
このような手紙をやりとりしたといいます。
静(せい)ちゃん、
お便りありがとう。
何べんも何べんも読みました。
お送りしたお金、
こんなに喜んでもらえるとは、思いませんでした。
神棚などに供えなくてもよいから、
必要なものは何でも買って、つかって下さい。
兄ちゃんの給料はうんとありますし、
隊にいるとお金を使うこともありませんから、
これからも静ちゃんのサイフが空っぽにならない様、
毎月送ります。
では元気で、
おじさん、おばさんに、よろしく。
それまで、鹿児島県の知覧のみが特別攻撃隊の飛行場でした。
しかし、戦況の悪化により、知覧の補助として作られた万世基地でも、
昭和20年3月29日から終戦まで、多くの飛行戦隊が、
一機、また一機と飛び立っていきました。
昭和20年5月20日、特攻隊出陣の命を受け、
大石清伍長が、万世基地に到着します。
次の遺書を整備担当であった大野沢威徳氏に預け、
出撃し、そして散華しました。
なつかしい静ちゃん!
おわかれの時がきました。
兄ちゃんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。
思いがけない父、母の死で、
幼い静ちゃんを、一人のこしていくのは、
とてもかなしいのですが、ゆるしてください。
兄ちゃんのかたみとして
静ちゃんの名であずけていた
ゆうびん通帳とハンコ、
これは静ちゃんが女学校に上がるときに
つかってください。
時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんにたのんで、
売ってお金にかえなさい。
兄ちゃんのかたみなどより、
これからの静ちゃんの人生のほうが大じなのです。
もうプロペラがまわっています。
さあ、出げきです。
では兄ちゃんは征きます。
泣くなよ静ちゃん。
がんばれ!
この遺書を預かった大野沢威徳氏も、
静ちゃんに宛てて、次のような手紙を添えています。
大石伍長の静ちゃんへの優しさが伝わります。

野沢さんの静ちゃんへの手紙です。

大石静恵ちゃん、 突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。

わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。

伍長どのは今日、みごとに出げきされました。

そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。

おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちゃんのつくった人形を 大へん大事にしておられました。

いつも、その小さな人形を飛行服の 背中に吊っておられました。

ほかの飛行兵の人は、 みんな腰や落下傘の縛帯の胸にぶら下げているのですが、 伍長どのは、突入するときに、人形が怖がると可哀そう、 と言って、おんぶでもするように、背中に吊っておられました。

飛行機にのるため走って行かれる時など、 その人形がゆらゆらとすがりつくようにゆれて、 うしろからでも一目で、あれが伍長どのと、すぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちゃんといっしょに居るつもりだったのでしょう。

同行二人。 仏さまのことばで、そう言います。

苦しいときも、さびしいときも、 ひとりぽっちではない。

いつも仏さまがそばにいて、はげましてくださる。

伍長どのの仏さまは、 きっと静恵ちゃんだったのでしょう。

けれど今日からは伍長どのが、 静恵ちゃんの”仏さま”になって、 いつも見ていてくださることと信じます。

伍長どのは勇かんに、 敵の空母に体当たりされました。

静恵ちゃんも、りっぱな兄さんに負けないよう、 元気を出して勉強してください。

さようなら。

最後に、幼い妹を一人残して逝く 大石伍長の悲痛な句が残されています。

「妹のことを伯父にたのみ、新宮駅にて訣別。  妹泣く。伯父夫婦も泣く。  せめてあと数日、  妹の傍に居りてやりたし」

終戦まで三ヵ月弱前です。

5月20日、大石清伍長は特別攻撃隊として出撃したのでした。

出典元:https://www.youtube.com/watch?v=nQ0AN524pF4

『潜水航空母艦(伊号400型潜水艦)』
戦争中の お話です❗
アメリカ大陸パナマ運河を 破壊する戦略で作られた大型潜水艦です。
通常の潜水艦を 二隻抱き合わせた設計です。
艦内に 水上攻撃機を3機収納していて、攻撃目的地近くに浮上。カタパルトから発進させる計画でした。しかし 完成が遅れ 作戦は実現しませんでした。
この潜水艦は 母港を出港すると、無補給で アメリカ大陸までを往復航海できる能力を持っています。
※写真の飛行機は「特殊攻撃機 晴嵐」です。
製造が難しく 終戦まで28機しか完成できませんでした。
須賀しのぶさんの『また、桜の国で』を読みました。500ページの長編だったし、第二次世界大戦中のお話だったので、とても苦しかったのですが、読み終えて満足しています。
 第二次世界大戦といっても舞台は日本でもアメリカでもなく、ポーランドです。世界史で習ったはずなのに忘れていましたが、ポーランドという国は、100年間も地図上から消えていた時期があったのにも関わらず、密かに耐え抜いたポーランド人によって再建されました。しかし、ドイツのナチスによって、また、壊滅的な侵略を受けます。ユダヤ人迫害については他の本で読んでいましたが、改めてその酷さに溜め息が出ました。
 主人公一人目は棚倉慎。母は日本人ですが、父親はソ連を憎むロシア人です。主人公二人目は、ポーランド孤児になってシベリアに送られた時、日本に救われたカミラ。三人目の主人公は、ユダヤ系ポーランド人のヤン。ユダヤ人の逃亡を助けた杉原千畝さんの名前も出てきます。
 「国を愛する心は、上から植え付けられるものでは断じてない。まして、他国や他の民族への憎悪を糧に培われるものであってはならない。人が持つあらゆる善き感情と同じように、思いやることから始まるのだ。そして、信頼と尊敬で、培われていくものなのだ。」心に刻まれました‼️

父親の軍隊手帳

なぜ若者たちは笑顔で飛び立っていったのか——ある特攻隊員の最期の言葉

大東亜戦争末期の昭和20年、日本軍は悪化した戦局を打開すべく、戦闘機で敵艦に体当たりする特攻作戦を展開しました。祖国を護るため、知覧から飛び立っていった若き青年たちに捧げ尽くしたのが特攻の母といわれた鳥濱トメさんです。特攻隊のあの子らのことを決して忘れてはならない——。戦後、こう語り続けたトメさんが後世に遺した言葉とは。トメさんの託した思いを、富屋旅館三代目女将・鳥濱初代さんに語っていただきました。

ある特攻隊員の最期の言葉

 畏友服部武司さん

「愈々出撃も明日と決定せる今、全てを打ち明けます。約半年前振武隊桜花隊特別攻撃隊の命を拝受して遂々明日こそその大任を果す事と成りました。喜んで下さい。勝又は漸く服ちやん達の期待と応援に報ゆることの出来るうれしさで一杯です。昨晩父母、兄たちと訣別し小生の元気なハリキリ飛行も存分見て貰ひました。書き度い事が一杯で何と書き申して良いのか解りません。只勝又が君達と別れて日本の必勝を信じて突入して往く事を喜んで下さい」

              *

これは特別操縦見習士官二期生として知覧の飛行場で教育を受けていた勝又勝雄少尉が特攻隊として出撃する前日に親友に宛てた手紙です。

勝又少尉は昭和20(1945)年5月4日に知覧飛行場より出撃し、沖縄周辺で戦死されました。享年22歳でした。

この勝又さんは知覧の町で誰もが知る有名人でした。というのも、まだ空襲もなかった昭和18(1943)年、町で行われた運動会に飛行学校の生徒として参加した勝又さんは獅子奮迅の大活躍をしたのです。とくに最後に行われた騎馬戦では相手を次々に倒して、見事、勝ち残りました。豪快で明るい性格の勝又さんの行くところ、笑顔の花が咲きました。

飛行学校を卒業してから1年後、勝又さんが久しぶりに富屋食堂に姿を現しました。すでに少尉となっていた勝又さんは、富屋食堂の女将であり、飛行学校の生徒の頃に可愛がってもらった鳥濵トメに会いに来たのです。

しかし、勝又さんの挨拶を聞いて、トメは胸を痛めました。

「おばちゃん、久しぶり。でも、今度は短いよ。何しろ特攻だからね。だから今日は飲みおさめというわけで、思い切り飲んで、飲み足りないことのないようにしてからドーンと行こうと思うんだ」

富屋食堂は軍の指定食堂であったため、特別にお酒の割り当てがありました。とはいえ、在庫は限られており、トメは隊員さんたちにさびしい思いをさせないようにと、四方に手を尽くしてお酒を調達していました。

勝又さんはトメが苦心して調達した焼酎を一杯つがれるごとに「おばちゃん、ありがとう」とお礼を言って飲み干しました。

トメはたくさんの命を犠牲にしながら全く見通しの立たない戦争への不安を口に出し、「日本の行く末が心配だよ」と沈んだ口調で言いました。そんなトメの不安を振り払おうとするかのように勝又さんは言いました。

「俺は勝又の勝雄だよ。勝つ、勝つ、こんないい名前はないだろう。このめでたい名前の勝又勝雄が出撃するんだから、日本は勝つに決まってるよ」

おどけた調子でそう話すのを見て、トメはつい笑ってしまいました。

「そうだよ、おばちゃん、笑ってくれよ。くよくよ心配なんかしちゃだめだよ。あんまり心配すると、頭の毛が抜けてハゲになっちゃうよ。ハハハ」

そして

「おばちゃん、笑ったところですまんがもう一杯」

と杯をトメの前に差し出しました。

好きな酒を心ゆくまで飲み尽くした勝又さんは、帰り際、トメに最後の別れを告げました。

 「おばちゃん、元気で長生きしてくれよ。人生50年と言うけれど、俺なんかその半分にもならない20年であの世に行っちゃうんだからな。あとの30年は使ってないわけだ。だから俺の余した30年分の寿命はおばちゃんにあげる。おばちゃんは人より30年余計に生きてくれよ。きっとだよ」

 それから「じゃあ、さようなら」と手を振って勝又さんは去って行きました。その後ろ姿をトメはいつまでも忘れることができませんでした。

太平洋戦争末期、日本は戦局を打開するために、飛行機ごと敵艦に突撃する特攻攻撃を採用しました。鹿児島にある知覧飛行場からは、連日、沖縄に向けて数多くの若者たちが飛び立ち、自らの命を捧げました。

戦後、特攻隊は軍国主義の悪しき象徴のように言われ、隊員の死は「犠牲」「犬死に」とされました。

しかし、「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメは、彼らの傍らにいて、その最期の日々をともに生きてきた者として、若者たちの尊い命が「犠牲」や「犬死に」という言葉でひとくくりにされることに我慢できませんでした。そして、トメは決意をするのです。

隊員さんたちの真実を伝える語り部として、彼らがどのように生き、なんのために死んだのかを語り続けていこう、と。

鳥濵トメはもうこの世にいません。しかし、トメの言葉は私の記憶の中にしっかり刻みこまれています。私はその思いを引き継ぎ、次の世代にしっかり受け渡していきたいと考えています。

本書は、そのための一つの試みでもあります。私のような者が表に出るのは烏滸がましいという思いもありますが、私が語ることによって、特攻隊員さんたちの、そしてトメの思いが一人でも多くの方たちに伝わるとすれば、天国のトメにも「初ちゃん、よくやった」と喜んでもらえるのではないかと思っています。

心で結ばれたトメと特攻隊員たち

昭和16年に福岡の大刀洗陸軍飛行学校の分教所として知覧飛行場が完成しました。富屋食堂は軍の指定食堂になり、訓練が休みの日になると多くの少年飛行兵が訪れるようになりました。町には映画館があるわけでもないし、優しいおばさんのいる富屋食堂は少年兵たちの憩いの場所になったようです。

誰に対しても分け隔てなく温かく接するトメの人柄は若い兵隊さんたちの心を和ませました。富屋食堂は大変な賑わいとなり、トメはみんなから最初は「おばさん」そのうちに「お母さん」と呼ばれるようになりました。

一方、戦争は悪化の一途をたどり、昭和20年、沖縄戦が激化するようになると、ついに特攻作戦が導入されることが決定されました。そして、悲しいことに本土から沖縄に最も近い場所にある知覧飛行場がその出撃基地として選ばれてしまいました。

分教所で学んだあと各地の航空基地に散っていた少年兵たちが、成長した姿で続々と知覧に戻ってきました。懐かしい顔との再会にトメは喜びましたが、やがて彼らが特攻作戦に従事することを知ると、心は悲しみで沈みました。

しかし、トメはつらい気持ちを胸の奥に隠して、最後まで彼らの「お母さん」として振る舞おうと決めました。そして隊員さんたちがゆっくりする場所がないと困るだろうと、食堂裏の民家を借り受け、そこを「離れ」と称して開放しました。トメは卵焼き、サツマイモの天ぷら、ジャガイモの煮付けなどを作って供し、それを肴に彼らはよく飲み、高唱しました。

ただ、お金をもらう以上にもてなすので、食材を買うお金が底を突きそうになったこともあったようです。そういうときは自分の着物や家財道具を売って工面をし、材料を調達していたといいます。

明日の身がない子たちに心ゆくまで居させてあげたいとの思いだったのでしょう。当時は軍の統制下で営業時間が午後9時までと厳しく定められていましたが、トメはその時間を守らず、夜が更けるまで営業を続けました。トメには命が限られている特攻隊の人たちに対して時間を切ってもてなすようなことはできなかったのです。

あるとき、それが憲兵隊に見つかってしまいました。「営業時間を守ってない、風紀を乱す」という理由でトメは警察に連行されました。軍の規定違反をとがめられたトメは、

「9時以後はお金ももらっていないし、商売で飲み食いさせているわけではない。それに、いい気分で寝てしまった子たちを起こすわけにはいかない。兵隊さんたちは自分の子供みたいなものなのだ」

と素直な気持ちで話しました。そして

「それくらいしてもいいじゃありませんか! あの子たちは2、3日したら体当たりするのだから」

と思いの丈を吐き出しました。それが憲兵たちの怒りに油を注ぎました。「貴様、女の分際で理屈を言うか!」と4、5人に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けてしまいました。

その頃、富屋食堂にやって来た隊員さんたちは、いつも笑顔で迎えてくれるトメがいないのを気にとめ、店員に「お母さんの姿がないけど、どうしたんだ?」と聞きました。そして憲兵隊がしょっぴいて行ったことを知ると、代表者が警察署に向かい

「僕たちの身はどうなっても構わないが、釈放しないのなら力づくでも奪い返す。どうせ明日には死ぬ身だから」

と直談判してトメを救い出したのです。

トメは殴られ蹴られて傷つき腫れ上がった顔のまま隊員さんに担がれて富屋に帰って来ました。こんな仕打ちを受けながらも、トメは決して怯むことなく、それからあとも隊員さんたちに尽くし続けました。これらの話を聞くにつけ、トメは覚悟の人、無私の人だったと感じます。

トメは左手首の付け根より少し内側に「トメ」という字を刃物で刻んでいました。字といっても私が見たときはもう傷のようになっていたのですが、あるとき「おばあちゃん、これ、なんなの?」と聞くと、トメはこう答えました。

「このトメがどこでどうなってもこれを見ればトメだってわかるから、人に迷惑をかけんから」

 憲兵隊に暴行を受けてもしものことがあったときに、ここにトメとあるのを見れば自分だとわかるだろうというのです。たえと野垂れ死にしようと、トメだとわかるようにしておけば人に迷惑をかけることもない、と。

この話を聞いたときは鳥肌が立ちました。神がかっていると感じました。すごい生き方だと思いました。特攻隊の隊員さんたちが国の将来や愛する家族を守るために自らの身を捧げたように、トメもまた自らのすべてを隊員さんたちに捧げようとしていたのです。

本記事は致知出版社刊『なぜ若者たちは笑顔で飛び立っていったのか』より内容の一部を抜粋・編集したものです

◇鳥濵初代(とりはま・はつよ)
昭和35年鹿児島県生まれ。55年鹿児島女子短期大学卒業後、老人ホーム「寿楽園」に勤務。58年鳥濵トメの孫・義清氏と結婚する。平成7年富屋旅館三代目女将に就任。旅館業の傍ら、祖母・鳥濵トメの託した思いを来館者に日々語り続けている。

◇鳥濵トメ(とりはま・とめ)
明治35(1902)年~平成4(1992)年。鹿児島県出身。貧しい漁民の子として生まれ、8歳で奉公に出される。18歳で鳥濵義勇と結婚。昭和4年27歳の時、知覧に富屋食堂を開業。20年特攻作戦が始まると知覧から出撃する特攻隊員の面倒を見るようになる。憲兵の検閲を避け、隊員が家族などに宛てた手紙を代理で投函した他、隊員の出撃の様子を自ら手紙に綴り、全国の家族のもとへと送り続けた。21年飛行場の一角に棒杭を立て、隊員の墓標として供養を始める。27年富屋旅館開業。30年特攻平和観音堂が建立され、その観音堂参りが以後ライフワークとなる。平成4年4月22日逝去。享年89。

保安隊から自衛隊へ。

ナマズを研究する秋篠宮さま、訪問先の「熱帯植物園」の水槽を時間をかけて観察-福岡

福岡県北九州市を訪問中の秋篠宮ご夫妻が2日、市内の公園にある熱帯植物園などを視察されました。

◆水槽の前に立ち止まり“観察”

秋篠宮ご夫妻は2日午後、北九州市若松区にある市内最大の公園「グリーンパーク」の熱帯生態園を訪問されました。ナマズを研究する秋篠宮さまは、水槽の前に立ち止まってじっくりと観察したほか、園内の植物を見て回りながら、紀子さまと時折、仲睦まじく話をされました。一方、紀子さまは花やカメレオンなどをスマートフォンで撮影し、同行した福岡県の服部知事らと話をするなど、和やかな雰囲気で視察されました。

◆「可愛く飼育されていますね」

グリーンパーク佐々木徹プロジェクトマネジャー「説明をさせて頂いたんですが『この樹木はこれですね』といろいろお話いただいてとても詳しくてびっくりしました」
グリーンパーク岩本律子動物管理課長「ナマズをご覧になって『大切に可愛く飼育されていますね』と言っていただいてすごく嬉しかったです」

 

ご夫妻は3日、北九州市で開かれる「みどりの愛護」のつどいに出席される予定です。

海自艦艇公開⚓️
横浜開港記念日のイベントは軒並み中止でしたが、本日はこれがあったので雨上がりに行ってきました。
1枚目 護衛艦あぶくま
2枚目 潜水艦とうりゅう
3枚目 ハンマーヘッドに接岸の図
4枚目 機関銃と(平和の象徴のような)ランドマークタワーのツーショットがいろいろと考えさせられます🙏🏻
5枚目 捕まえたガメラの背中に乗っているわけではありません😆
2023/06/03
#護衛艦 #あぶくま #潜水艦 #とうりゅう #海自艦艇公開 #ハンマーヘッド #新港ふ頭 #横浜 
— 場所: 横浜ハンマーヘッド Yokohama Hammerhead
太平洋の嵐
60年 東宝
昭和17年(1942年)6月5日
約80年前の今日起こったミッドウェー海戦を中心とした特撮戦記映画。
作戦のまずさから赤城、加賀、蒼龍が米機の攻撃で被弾、大炎上となり山口司令官の飛龍単艦となった。 ワレ之ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル。逆襲に燃える三船演じる山口司令官の飛龍が米エンタープライズ、ヨークタウン、ホーネットの3空母に挑む。
後の山本五十六にも多くの場面が使われた戦闘シーンは見もの。
アメリカ製作のミッドウェイとは質が違います。
https://youtu.be/JPQbFDjMYmw
2023/6月9日は、両陛下ご結婚
【1993(平成5)年】
この30年、「二人で多くのことを経験し、互いに助け合いつつ、喜びを分かち合い、時には悲しみを共にし歩みを進めてこられた」と、喜びだけではなく、悲しみもあったことを率直に明かした上で、支えてくれた多くの人々に感謝された。(読売新聞 抜粋)
私は、その頃、何をしていたか、記憶はないが、皇后さま、美智子様のように苦労されないかと心配であった。確かにいろいろと悲しいことはあったが、無事に乗り越えられた30年であったと思う。
これからも末永くご家族の方々と共にお幸せに。
昭和17年〜20年。
こんな時代でした。
もんぺが正装。防空頭巾で防火訓練。女子生徒は体育の時間に竹槍訓練。
〘学童疎開〙
昭和19年に始まった制度の名称です。
この年、初めて米軍の本土爆撃に襲われました。
政府のとった措置は都市部の住民を農村部に移動、つまり疎開させるということです。当初は農村部の親類縁者のもとへの「縁故疎開」でしたが、縁故のない学童たちを集団で疎開させるようになります。法制が本格化したのは昭和20年。半強制的に「学童疎開」は進められます。小学校(当時は国民学校)3〜6年生が対象です。親元を離れた学童たちはお寺、旅館に寝泊まりして地元の学校に通いました。
同学年の私は、地方都市に住んでいたため疎開児童を受け入れる側でしたが、彼らの辛苦を受け止めるには稚すぎたように思います。
健在なら80代後半になります。
✱画像の被りものは防災頭巾。日常必携品でした。
1945年、昭和20年
神奈川県厚木市に到着した連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元師

上皇・上皇后ご夫妻がお使いになる傘

【上皇・上皇后ご夫妻がお使いになる傘】
https://yuru2club.com/wp/?p=5150
2019年、4月30日に退位礼正殿の儀をお迎えになった上皇様でした。
いつも穏やかな笑顔と温かい言葉で、
私たち国民に接してくださった上皇・上皇后様。
そんな心優しい天皇・皇后両陛下時代の「傘」についてのエピソードを
ご案内したいと思います。
平成22年に神奈川県で行われた全国植樹祭のときのことです。
この日は雨でした。
しかし、この雨の日をきっかけに、
両陛下はある特徴的な行動をされるようになりました。
両陛下は雨の中、植樹をされることになったのですが、
この時、県の関係者がビニールの透明傘を
急きょ両陛下に差し出しました。
それまでは、規定の方式にのっとり、
黒い傘をご利用されるのが常でしたが、
この日以来、透明傘をご利用されることが多くなったようです。
たとえば、
平成25年7月4~5日、両陛下は、復興状況の視察とお見舞いに
岩手県の被災地を訪れになりました。
5日は、朝から大船渡市の工場を視察されましたが、
あいにくの雨。
両陛下は、従業員全員が屋外に整列して見守る中、
工場入口で御料車を降りられました。
その際、宮内庁職員が、いつもお使いの
黒い大きな雨傘を差し出しましたが、お受け取りにならず、
当時の美智子皇后さまが小声で何か指示を出されました。
すると職員は急いで車から、
透明のビニール傘を取り出しました。
両陛下はそれをさして、
出迎えた従業員に手を振られたのです。
この時、美智子皇后さまはなぜ透明のビニール傘を指示されたのか。
それには、温かいご配慮があったからです。

智子皇后さまのご配慮とは、 雨の中待っていた人たちにお二人の、 「お顔がよく見えるように」というご意志だったのです。

この後、両陛下は1,500人を超える死者が出た隣接する陸前高田市へ。

ここでも土砂降りの中、 100人以上の被災者が両陛下を一目見ようと、 1時間近く待っています。

両陛下は、ここでビニール傘をさされました。

お二人は相合い傘で、手を振って被災者にこたえ、 腕を組んで庁舎の中に入られました。

両陛下が使われているビニール傘は、 一般的なビニール傘とは全くの別物です。

「縁結」という8,400円もする品物。

骨はグラスファイバー製。 ビニールは3枚重ね。

骨には小さな穴が開いており、 突風が通り抜けて傘への負担を軽くしています。

陛下が使用する傘が折れてしまっては不吉とのことで 「逆支弁」仕様になっています。

両陛下の国民を想うお優しい気持ちは、 道具一つ一つにも行き渡っているのだと思います。

御年80歳を越えた今でも、 私欲を滅し、他者のために行動されるその姿は 国民のよきお手本となっています。

両陛下がご無理をなされず、 これからもお元気でいらっしゃるよう、お祈り申し上げます。

昭和20年1945年
東京・銀座4丁目三越銀座店前の
陽気な米兵とTIMES SQUAREの
看板を見上げる日本人
天衝(てんつき)体操
 この写真は約88年前、鹿児島県志布志市において、天衝体操の模様を撮影したものです。
 
 愛国心高揚や体力作りのための体操で、日本陸軍が始めたとされ、海軍では「海軍体操」と呼ばれた。
 志布志尋常小学校(もしくは志布志国民学校)の校庭で行われた。
            (昭和10年頃の写真)
~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、大隅半島の昭和)
第一回.東京オリンピック開会挨拶をする昭和天皇、後ろには平成天皇と美智子様
令和天皇はまだ五歳でした🥰🐼❤️

昭和34年に民間出身で初めての皇太子妃となった美智子さま。日本が復興を遂げていく中で気品あるスタイルは、洋装文化の発展を後押ししました。婚約発表や結婚時に羽織ったショール、ヘアバンド、パールのネックレスが流行。テニスコートでの白い開襟シャツと紺のカーディガン、プリーツスカート、そしてブローチも「プリンセススタイル」として人気になり「ミッチーブーム」が巻き起こりました。綺麗を通リすぎて桁違いのお美しさです。

人間魚雷回天の原寸大模型です。
乗り込んだら、搭乗口は、封印され脱出出来ない構造だったと聞いたことがあります。かつて、呉の海上自衛隊の施設で、特殊潜航艇の実物大の模型を見学しました。こういう物を見ると、涙が溢れそうになります。当時、回天、特殊潜航艇、神風特攻隊で出撃された方々は、私の息子(現在24歳)より年少でしたしね。
予科練平和記念館で展示されている兵糧のうどんも、汁には具が一切なしの素うどん。空腹を抱えて、訓練を重ね、出撃していかれた方も多かったでしょう。
昭和37年1月、皇太子殿下ご夫妻(現:上皇陛下ご夫妻)の東南アジア、インド、パキスタン等ご訪問。
本日(令和5年6月17日)、天皇陛下ご夫妻がインドネシア訪問にご出発されましたが、61年前に上皇陛下ご夫妻は訪問され、大歓迎を受けられました。(我が家に残る雑誌から)

遠い南の島で、日本の兵隊さんが伝えたこと

【遠い南の島で、日本の兵隊さんが伝えたこと】
https://yuru2club.com/wp/?p=5008
遠い南の島。
日本の歌を歌う老人がいました。
その老人が語りました。
そこには農業や、漁業で十分自給自足できる環境があり、
欲しいものは物々交換が行なわれていました。
そんな南の島にも70数年前、太平洋戦争のとき、
日本軍が進駐し陣地が作られました。
当時10歳前後だったその老人は、
村の若者達とともにその作業に参加しました。
島の人たちは、日本兵と親しく交わり、
日本の歌を一緒に歌ったりしたといいます。
「ギンギンギラギラ夕日が沈む、
ギンギンギラギラ陽が沈む……」
「もしもし亀よ亀さんよ…」
当時の日本の唱歌を今でもよく口ずさみ、
驚くことに、それが島の現在の子供達にまで伝承されているのです。
また老人は断片的ながら、
いまだに日本語を会話の中に交えながら話します。
なぜ、そのように日本の歌、日本語に馴染んだのかを
悲しい表情で老人は語りました。
陣地が作られて間もなく戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になったのです。
仲間達と話し合った島の若者たちは、
代表数人と共に日本の守備隊長のもとを訪れました。
「自分達も一緒に戦わせて欲しい」と。
それを聞くなり隊長は、激高し叫んだといいます。
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流しました…

民は、船に乗って島を去るべく伝えられました。

別れのその日、日本兵は誰一人、浜に見送りに出てきませんでした。

村の若者達は、悄然と船に乗り込みました。

しかし、船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきたのです。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、 手を振って彼らを見送りました。

夕暮れの海に「ギンギンギラギラ夕日が沈む・・・」 の歌声が流れたといいます。

先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

その瞬間、少年も若者たちも悟ったといいます。

自分たちを侮辱するあの言葉は、 自分達を救うためのものだったのだと・・・。

老人が日本の兵隊さんのことを思い出しながら、つぶやきました。

「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」

この島には、日本の唱歌や日本の言葉が残っただけではありません。

兵隊さんから教えてもらった、 芋の作付け方法などまで伝承されていました。

兵隊さんたちからの教訓も、その老人の中に残っていました。 「うそをついてはいけない。約束は守ろう」

兵隊さんから教えてもらったその言葉を、 老人は今も忘れていませんでした。

パラオ諸島の、あるひとつの小さな島でのエピソードでした。

【輝く!日本陸軍大将(or中将)シリーズ】
❷根本博陸軍中将
事実は小説よりも奇なり!と言います。
根本博陸軍中将の生涯は、日本史上屈指のドラマチックなものに感じます。
今回は、門田隆将『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』を紹介します。
よくマニュアル人間とかいいます。
上司から言われたことをそつなくこなして仕事してさえいれば、とりあえずは無難に時間を過ごし、お給料をもらっていけると思います。
しかし、その上司の絶対命令が、間違いなく『そうすべきではない!』とわかっている場面だったとしたら、あなたはどんな行動をするでしょうか?
ましてや、その場面が一般的な会社ではなく戦場であったなら…。
1945.8.15天皇陛下の玉音放送が流れ、それをもって日本では終戦とされます。
その時、根本博陸軍中将は、駐蒙軍司令官として、満州の西隣の地域にいました。
戦争は終わった!武装解除せよ!
上からの命令が来ます。
しかし、根本博は、8月9日に、日ソ中立条約を一方的に破棄し、攻め込む姿勢を見せるソ連軍のことをよく知っていました。
自分が守るべき地域には、四万人の在留邦人と10万を超える部下達がいる。上からは、武装解除せよと厳命が下る。武装解除したら、ソ連軍が攻め込んで来て大変なことになることが目に見えている(武装解除するなら信頼できる国民党軍に)…。
司令官としてどうすべきか。
※基本、武装解除する場合が多く、ソ連軍に対してそれをやった結果、大変な被害者が出ました。シベリア抑留や中国残留孤児などの悲劇は、この時にあったことです。
根本博は、襲撃してくるソ連軍撃退を決意。玉音放送に続けて、在留邦人に向けて語り出します。
日本は戦争に敗れて降伏することになったことを語り、
「皆さん今後のことを心配していると思います。しかし、我が部下将兵達は皆健在であります。我が軍は、私の命令がないかぎり、勝手に武器を捨てたり、任務を放棄したりする者は一人もいません…」
あなた方の生命は、私が身命を賭して守り抜く‼️
そう宣言して、まず住民達の不安を取り除き、パニックになることを防ぎました。
しかし、そのあと、根本博の部下の幕僚達の間で意見が真っ二つに分かれます。
武装解除すべき!
戦いを継続すべき!
国の方針が終戦、武装解除だから、命令違反で根本博は戦争犯罪人になってしまう。
上司をそんな風にさせたくない!
色々な思いが交錯します。
やがて、ソ連軍飛行機からビラが散布されます。
「日本は無条件降伏しており、関東軍も既に命令に服しているのに、張家口方面(根本博軍がいる場所)の日本指揮官だけが天皇陛下の命令に服従しないのは戦争犯罪人として死刑に値する」
そしてソ連軍の軍使がやってきます。
回答を求める!と。
参謀達はどうすべきか激論します。
結論が出ないため、根本の出席を求めます。
根本は
「諸君、私を戦犯にすると言うがごときは、児戯に類することである」
「ソ連は、私を戦犯にするとのことだが、私が戦死したら、もはや戦犯にしようとしても不可能ではないか。もし、諸君の中に戦闘継続に躊躇する者があれば、私自身が陣地に赴き、ソ連軍軍使を追い返そう。もし不可能ならば、私自身が戦車に体当たりして死ぬだけのことだ」
この発言で継戦で一致団結。
上司である支那派遣軍総司令官岡村寧次大将からの武装解除の厳命にも反発。
結果、在留邦人と部下達を無事帰国させることに成功します。
その際に、手助けしてくれた中国国民党の蒋介石総統に対して、根本は深い恩義を感じます。
蒋介石は、終戦後の日本の国体の維持などについても、皇室を守るなどの重要な提言をしてくれてました。
いつか蒋介石総統にこの恩を返したい!
戦後、中国国内は、毛沢東率いる共産党軍と、蒋介石の国民党軍の内戦が激化していきます。戦況は共産党軍優位に展開し、国民党は台湾へ逃げ込み、危機的状況に陥ります。
そんな時に、根本博の元へ一人の人物がやって来ます…。
日本人として、誇りがもてる軍人さん。
我々の歴史には、根本博陸軍中将がいる❗️
そう強く思える人物です。
台湾をめぐる緊張感が高まる今だからこそ、知って欲しい人ですね。
胸が熱くなり、しびれが3日続くくらい(笑)の魅力的な人物です。
『 ようこそ自衛隊地方協力本部へ 〜航空自衛隊篇〜 』
数多久遠
角川文庫の書き下ろしです。
自衛隊の募集などの仕事をされている地方協力本部の仕事をテーマにした短編集です。
自衛隊のイベントなどで自衛隊のパンフレットを配ったり、制服着用コーナーなどで世話をしてくれている自衛官の人たちが普段どんな仕事をしているかが分かると思います。
この短編集の第一話「イラクの空と新任務」は、イラク派遣に行った鍋屋肇二等空尉が地方協力隊本部長として赴任して募集相談員の柏木に委嘱式で会うところから始まります。
柏木は地連の広報官の時に鍋屋に防衛大学校受験を勧めた人物でした。
第二話「離島と芋煮会」は地本の広報官の相馬二等陸曹が、自衛隊に入ればお金が貯められる でしょうかと飛び込んできた高校生の飛田少年とのやり取りを描いたものです。広報官の相馬は飛田少年に自衛官の道を選ばせるのでしょうか。
第三話「ラインとドッグ」は、地本の広報官の江戸三等空曹が満期退職者の蓮沼一等空曹の就職斡旋と新規開拓をかけての活動が描かれています。
第四話「クラブの夜と財務省」は、これまで登場した地本の広報官の相馬二等陸曹、江戸三等空曹とWAVE(Woman Accepted of Volunteer Emergency Service:女性海上自衛官)の裾花三等海曹が高校生を航空自衛隊岐阜基地に一泊二日の見学会に連れて行くところから始まります。
基地見学のついでに相馬二等陸曹が自分が勧誘したWAF(Woman in the Air Forces:女性航空自衛官)の土橋一等空士の悩みを聴きに行く話です。
第五話「揺れる進路と思い違い」は鍋屋肇本部長の後輩を相馬二等陸曹が気象を希望する友永少年を防衛大学校を勧めるのですが、彼の第一希望はどこだったのでしょう。
第六話「あかねの空と家族愛」では、鍋屋一等空佐が防衛イベントで救難教育隊からUH-60Jと同期の山村二等空佐を借りて展示と講演を依頼したのです。
山村二等空佐は松山基地での東日本大震災の体験談を語ります。
家族よりも任務優先で動かなけばならないからこそ自衛官は家族を大切にするということが語られます。
お仕事小説ですが、身近に接する機会がありながらなかなか知られていない地方協力本部の広報官の話でした。
有川浩の「空飛ぶ広報室」の広報官とは違う地道な活動を知ることが出来ました。

大阪大空襲(昭和20年3月~8月にかけて8回)による破壊された大阪難波の航空写真

ロシアの民間軍事会社ワグネルの創設者エフゲニー・プリゴジンによる急展開のロシア「プリゴジンの乱」「ワグネルの反乱」を見せつけられて、
戦後25年の1970年11月25日、作家の三島由紀夫が自ら主宰する「楯の会」の若者と、自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、自衛隊員に憲法改正のための決起を呼びかけたあと、割腹自殺した事件を思い出しました。当時私は大学生で、全国各地の大学で学生運動が血気盛んな時代でした。
これが、三島由紀夫がバルコニーで唱えた演説内容です。
「おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)
おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。

御成婚30年、素敵な笑顔の天皇皇后両陛下、その脇の愛子様の予想外の表情に「笑った」

昭和34年に上皇陛下、上皇后陛下(皇太子ご夫妻)のご結婚祝い(婚約祝い)の看板です。
銀座4丁目交差点の和光向かいの三愛屋上に掲載されて、国民の祝賀ムードが盛り上がりました。

千葉空襲の犠牲者の名前が刻まれた祈念碑の横には児童が平和への思いが記された短冊が添えられた=千葉市中央区で2023年7月7日午前10時43分、長沼辰哉撮影

 

「戦争がなくなりますように」 “七夕空襲”から78年、短冊に願い

 

 

太平洋戦争末期の1945年7月7日に千葉市街地が米軍に爆撃され多くの犠牲者が出た「千葉空襲」から78年となった7日、亥鼻公園(千葉市中央区)に建てられた平和祈念碑には空襲の体験者ら約30人が集まり、平和への祈りをささげた。会場には七夕に合わせ、同市立本町小学校の児童が平和への思いを願い、短冊にしたためたササ飾りも置かれた。  1945年に同市では5月8日、6月10日、7月7日と3回の空襲があった。そのうち被害が最も大きかったとされる同6日深夜から7日にかけての空襲は「七夕空襲」とも呼ばれ、同市街地が標的となって1204人が死傷した。祈念碑は空襲から70年となる2015年に市民団体「ちば・戦争体験を伝える会」(千葉市)と「千葉市空襲と戦争を語る会」(同)のメンバーらが寄付を募って建立。市内の慰霊碑などから集めた空襲犠牲者の名前が記されている。新たな情報提供により修正と追加が繰り返され、当初は犠牲者や家族名計671件だったのが、この8年間で740件に増えた。  7日は同公園に午前11時、体験者ら約30人が集まって30秒間黙とう。その後、参加者が花束を手向けた。公園近くの同小は空襲で被災し、当時通っていた児童の約1割が犠牲になったという。当時の資料や写真を見た小学5、6年の児童約100人が「世界から戦争がなくなりますように」などと平和への思いを短冊につづり、祈念碑の隣に設置した。集いに参加した同小PTA会長の増田淳さん(55)は「私を含めて小学生も戦争を直接、知らない世代になる。こうして学んだことを次の世代につないでいきたい」と話した。  ◇戦争の悲劇、忘れないで  空襲があった当時、3歳だった千葉市緑区の森大死さん(81)は祈念碑の前で「千葉空襲を忘れない」と力を込めた。蘇我地区の自宅で空襲にあった。自身はまだ幼かったが、当時42歳だった母親の故いしさんから繰り返し聞いたという。  1945年6月10日、家族全員で朝食をとった後、空襲警報が鳴った。父の辰蔵さん(当時54歳)の指示でいしさんと祖母、兄と一緒に庭先の防空壕(ごう)に入った。直後に「ズシーン」という大きな音と共に、防空壕の中に煙が入ってきた。家のすぐ近くに約230キロの爆弾2発が落下した。防空壕から出ると、周囲は丸焼けになっていた。近くにあったいしさんの実家を見に行くと言って出かけた辰蔵さんは帰ってこず、遺体で見つかった。この爆弾で近隣の10人も亡くなった。  一家の大黒柱を失ったいしさんが、想像を絶する苦労をしながら必死に子育てをしたことを、森さんは目を真っ赤にしながら語った。その後、祈念碑の辰蔵さんの名前が刻まれている場所の前で「今も戦争中のウクライナには同じように嘆き、苦しんでいる人がいる。子どもの世代にはウクライナの現状や戦争の悲劇を忘れないでほしい」と声を振り絞って訴えた。

みんなが
爆弾なんか
つくらないで
きれいな花火ばかり
つくっていたら
きっと戦争なんか
起きなかったんだな
山下清の名言
山下 清(画家)
1971年7月12日没、享年49。(没後52年)
1922年3月10日生まれ。(生誕101年)
東京都 東京 浅草出身。
今のご時世、この言葉は身に染みるなあ。
あれからほぼ64年
上の写真は何処か分かりますか?
ヒント
下の写真は世界一有名な著作権©️放棄写真
答えは↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
1959年7月25日平和記念公園を訪れたチェ・ゲバラ31歳
革命後半年来日
当初の予定になかったが自ら強く希望
予定を変更して広島に電撃的訪問
原爆死没者慰霊碑に献花
今年はG7もあったけど世界の首脳初の献花だったのかもしれない
意思力と行動力は抜群の男
来日は2023/7月15日
靖国神社みたま祭り
東京の夏の風物詩として知られる靖国神社みたま祭りに行ってきました。昭和22年から始まり半世紀以上続いている歴史ある夏祭りです。
参道に飾られる大型の献灯、境内に飾られる小型の献灯、有名人が独自に作成した献灯で、ねぶた絵師、漫画家、力士、俳優等々見て回るのも楽しいです。
世界に平和が訪れます様に。
Apex product  団長 吉田哲

戦災孤児その数12万人とも、何かを煮炊きしているようです。

看護師のポストカード。1904 年から 1905 年の日露戦争中に配布されました。

昭和天皇皇后行幸啓
 この写真は約65年前、鹿児島市千日町において、昭和天皇皇后行幸啓の模様を撮影したものです。
 
 昭和天皇皇后は大分県別府市の九州七県国土緑化大会に隣席された後、鹿児島県にも立ち寄られた。視察3日目は午後からの雨の中、磯の尚古集成館、仙巌園(島津氐別邸)を巡られた。
 写真は天文館電車通りを進む御料車で、大勢の市民が傘を差してお迎えしている。
           (昭和33年の写真提供)
~国立国会図書館関西館の蔵書(写真アルバム、鹿児島市の昭和)
田中 久一さん
(たなか ひさかず、1889年(明治22年)3月16日 - 1947年(昭和22年)3月27日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。旧姓・小金井。
兵庫県出身。田中八作の養子となる。1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第37連隊付となる。陸軍戸山学校で学び、戸山学校教官、教育総監部付などを経て、1918年11月、陸軍大学校(30期)を卒業した。
参謀本部付勤務、参謀本部員、アメリカ出張、参謀本部員、歩兵第1連隊付、陸大専攻学生、陸大教官、陸軍省軍務局課員、陸軍歩兵学校教官、近衛歩兵第1連隊長、陸大教官などを歴任し、1937年12月、陸軍少将に進級。
台湾軍参謀長、第21軍参謀長、戸山学校長などを経て、1940年8月、陸軍中将となった。同年9月、第21師団長に親補され、中国大陸を転戦。1943年3月1日第23軍司令官、1945年2月1日香港占領地総督を兼任して終戦を迎えた[1]。
1946年3月にBC級戦犯指名を受け、同年10月9日に上海の米軍事法廷により死刑判決が出されたが[2]、翌年3月に中国の軍事法廷により再び戦犯として起訴され、広州で銃殺刑に処せられた。
辞世の句
永年の 終りの歩み さわやかに
恵みの途を 辿りゆく吾
ポツダム宣言記念日
1945年7月26日に、日本に降伏を迫る「ポツダム宣言」が発表されたことに由来。当初日本はこれを黙殺したが同年8月14日に受け入れて終戦した。
Wikipediaより
大戦中に動物園の猛獣が空襲などで暴れるのを恐れ、殺されました。そして、供出という名目で、一般家庭の飼い犬も命が奪われた時代、それでも、命懸けで愛犬を守った人々がいたことも事実です。
戦争の終焉はこのポツダム宣言の受諾ににより迎えました。そして、犬たちにも平穏な社会が訪れ…ませんでした。
戦争は絶対に有ってはならないこと、起こしてはならないこと、何の罪も無い動物たち、そして、愛犬の命さえ奪ってしまいます…、そんな残酷な世界、罪なき命を奪う現実がどんなに愚かなことであるか、現代人にも理解して欲しい、考えて欲しい、アクションを起こし欲しい…、大切な明日の為に!
※画像はイメージです。投稿内容には関係ありません。
第二次世界大戦の真実に迫る。
 
第二次世界大戦中の出来事を、驚きの映像や機密映像、そして貴重なニュース映像などとともに歴史、戦争の残酷さを伝える特集をお届け。
 
▼放送作品はこちら
『第二次世界大戦の潜水艦3「グロウラー:私に構わず潜航せよ」』
『ナチスのドラムビート作戦』
『窮地のヒトラー:進撃の連合軍 4「ノルトヴィント作戦」』※日本初放送
『ヒトラーの砂漠の戦争』
『正義の異邦人:ミープとアンネの日記「第四話 ハヌカの夜」』※吹替版日本初放送
『第二次世界大戦の潜水艦3「フィンバック:パイロット救出作戦」』
『悲劇のUSSインディアナポリスを探せ』
『窮地のヒトラー:進撃の連合軍 4「ナチス装甲部隊vs戦車ハンター」』※日本初放送
 
📆明日8/2(水)夜8時~
毎週(水)夜8時~他
 
▼おすすめ作品はこちら
『甦る!ニュルンベルク裁判の秘蔵音源』日本初放送✨
ナチス戦犯を裁いた、ニュルンベルク裁判の全過程を録音した2000枚以上のレコード盤が、オランダの国際司法裁判所に人知れず保管されていた。その音声がデジタル化され、数々の貴重な証言が公開される。罪を認めようとしないナチス幹部たち、彼らを追い詰めドイツ国民や世界にナチスの犯罪を暴いた、連合四カ国の検察団、そして強制収容所生存者たちの悲痛な体験を語る声が、70年以上の時を経てよみがえる。
 
📆8/16(水)夜10時~他
 
【放送ch】ナショナル ジオグラフィック
(スカパー!:CS343/ プレミアム:Ch.675)
https://x.gd/zirPJ
 
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■掲載画像
『甦る!ニュルンベルク裁判の秘蔵音源』
©Public Domain

終戦記念日が近づくと広島、長崎、靖国神社等が話題になりますが、加えて神風特別攻撃隊のこともぜひ思い出してもらいたいです。できれば出撃地の鹿児島の知覧、万世は一度はお参りし、若くして命を散華された隊員たちに思いを馳せてもらいたいものです。